兄Ms.無?
「あにみずむ」を変換したら「兄Ms.無」となりました。「兄見ず無」の方が僕はいいと思う。 それはともかく、歌壇では末端に至るまでみんなこの問題に真剣に悩んでらっしゃるんですね。僕は結社誌を稀に寄贈された物以外ほとんど読まないので、その雰囲気はよくわかりませんが、総合誌を眺めた感じでは、アニミズムの為の論争というより、対立の為アニミズムが使われてるような印象を受けました。まあ文壇でも論争なんて大抵そんなものなのでしょうけど。
歌人のアニミズムに関する発言を読んでると、数名の例外を除けば、作歌上の技法だか作法だかについて揉めてるみたい。アニミズム肯定派は、歌を詠むにあたり、自然の言葉を聞き取り、理解しようとされるらしい。まあしかし僕が自然だったら、口も開いてないのに本当に俺のことが解るのかよと言いたいですね。勘違いも相当あるのでは。それぐらいきちんと弁えてる方もいらっしゃるでしょうけどね。あまり軽々しく理解者づらされなくない。 一方、彼等から批判されてる人は、人間中心主義に近い思考らしい。自然を詠んでも、風が寂しいのは私が寂しいからだ、と。これでは自然が、俺のことなんかちっとも考えてないじゃないか、と怒ったとしても当然。へたすると、これは自己中心主義に陥ります。 つまり、どちらにせよ詠む側の独り善がりになりかねない。 作歌の恐いところは、どういう思想をよみこむかではなく、日頃どういう思想を抱いて生きているかが表われてしまうことだと僕は感じています、オーソドックスだけど。
もの思えば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
ただ、和泉式部のこうした名歌を思うと、アニミズムにしろ人間中心主義にしろ、正しかろうが誤りだろうが、名歌はその間隙を縫って吹き出してくるほかないのだなと思うばかりです。
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