ホームページの文章
「ホームページの文章って、ひどくありませんか」 そう尋ねられて、ついこの間もそんな話をしたなあ、と思った。僕も一応ホームページ作成者として他人事ではない。 でも、昔の芸術家のようにインスピレーションを待つのでなく、かといって推敲も重ねず、連日アップロードして情報を垂れ流せば、よほどの天才でもない限りまともな文章にはなるはずがないよ。もちろん佳いページもあるが、やっぱりそれは更新度合が低い。けれど、更新が多いとアクセス件数が上がるから、熱心な人ほど逆に悲惨な文を書くことになる。悪循環だ。 しかし、これは何もホームページに限ったことではない。 プロの作家だって同じような危険が待ち受けている。実際、デビュー作はすばらしい完成度を持った傑作だったのに、しだいに作品としての出来は落ち、そのかわり濫作に走れば走るほど、本は売れ、儲かる、そんな泥沼に堕ちている人は多い。これは情報化とか資本主義とかに関係ない。江戸時代だってそうだった。井原西鶴のように、はっと我に返って反省し濫作を中断できる人は稀で、たいていはそこに入ったままか、最初からマイペースを貫いているか、どちらかだ。 もちろん、最初から「ひどくて結構」でやっている人も多いのだから、あれこれ言ったってしょうがない。 困ったことは、「ひどい」と感じること。 カラオケへ出かけたりしたときはもちろん、どこからか流れてきた歌を耳にしただけで、僕等は「上手い」とか「下手」とか感じてしまう。一度そういう識別能力が身に付いてしまうと、下手なものに触れるだけでうんざりするようになってしまうのだ。これはちょっと改めようがない。 つい先日、 「私なんか短歌はTもHも新聞投稿も同じに見えますがねえ」 と言った知人がいたけど、識別能力がなければ、高校美術部員の習作も天才画家の傑作も区別つけられはしないし、一旦身に付いてしまうと、これが目に付いてしょうがない。もっとも、目に付くからって上手ければ良いというものでもないんだが。中には堂々と下手糞に詠んでいる有名歌人もいるけど、世の中にはヘタウマの絵というのもあり、わざと微妙に音程を外したヒット曲もあり、駄目なのかどうかは人それぞれ。 もっとも、僕は何事によらず上手が下手より優れていると考える。 そして、なにより困ったことは、たいていの人は何かを続けてゆくと、自然に上手くなっちゃうものなんだよ。あるレベルまではね。 だから、今はひどいホームページが多いとしても、画像もデザインも文章もだんだん優れたものが増えてゆかざるをえないのだろう。屑みたいなのも次々雑草のように出てくるとしても。 僕は自分が読みたいと思えるような文章を目指す。それ以外にはないのさ、始めから。
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