あ・はるふ・まんすりー・こめんと 2000年5月28日

 
  明石海人

 この五月、「癩病歌人」として知られた明石海人を取り上げたコラムをたまたま読み、僕は初めてこの人の本名を知った。記憶しておく為にも、ここに残しておきたい。
 「野田勝太郎」
 とっくに公表を遺族より許可されてはいたのだろう。これまで目を通した資料が古かったので載っていなかった。また、同じ筆名でも、釋迢空(本名・折口信夫)や島木赤彦(本名・久保田俊彦)と違い、癩病患者という身が仮名を使わざるを得なくしているのだろうと想像され、調べもしなかった。
 つらつら思い返すと、癩病がかつてどのようなものを意味したかを教えてくれたのは、横溝正史や松本清張のような推理小説ならびにその映画化作品だった。具体的にそのひどい差別状態を描いたのは、もっと社会学的な本だったけど。だから海人が実名でないのも不思議とは感じなかった。ただ、本名を公表できないことも明らかに差別の結果ではないかと思えば、名が伏せられているのを素直に諒と考えることはできないが。
 その後、ある短歌総合誌が「忘れられた歌人」の特集で取り上げているのを眺めさびしい思いをしたり、坂口安吾全集に歌集『白描』を絶賛するエッセイを見つけ一層安吾が好きになったりもした。

  世の中のいちばん不幸な人間より幾人目位にならむ我儕(われら)か

 不幸比べのむなしさを教えてくれたのもこの歌が始めだったように思える。幸福も不幸も相対的にはなれない。世界一不幸な人に、「君の不幸なんて僕と比べればたいしことないよ」と、あしらわれても、なんの救いにもなりはしないのだ。海人も自分が世界一とは信じていなかったし、世界はもっと不幸に満ちていることを了解してはいても、「しょせんこの程度」と開き直ることはできなかった。たかが「癒えがてぬ病」を嘆き、「癩(かたい)の我の何処に行けとか」と世の偏見に憤り、「消ぬべくもあらぬ妻子」と会えず離れてゆくことを悲しむだけだった。それしかないのさ、人間は。

  囀りの声々すでに刺すごとく森には森のゐたたまれなさ

 歌集『白描』は評判になったけど、僕が惹かれたのは、「白描以後」という題でまとめられた死までの歌に多い。歌集『乳房喪失』で有名な、やはり夭折の歌人・中城ふみ子にも、「乳房喪失」以後の遺稿に秀歌がちりばめられているのを思い合わせれば、秀歌とはやはり残酷な存在だな。

  蒼空のこんなにあをい倖(しあはせ)をみんな跣足(はだし)で跳びだせ跳びだせ
 

 

 
  川原由実子

 朝日ソノラマがついに文庫を出すと聞いたってべつに驚きはしないけど、第一回刊行に川原由実子「前略ミルクハウス」が入っていたのには驚いた。もとはフラワーコミックスだから、てっきり小学館文庫からいずれ出るのだろうと思い込んでいたので。そして、妙に懐かしかった。
 僕はそうとう漫画をたくさん読んだが、川原由実子は「KNOCK!」で出会ってから「午前3時のティータイム」以来コミック化された作は短編長編総てに目を通したので、好きだったんだろう。そういう漫画家は他にも高橋留美子とか大島弓子とか幾らでもいるわけだが、そうした多くの読者に恵まれた人の著作は友人知人もいくらか読んでいるけど、「川原由実子を読んでいる」などと言えば、谷山浩子のオールナイトニッポンのリスナーと間違えられるのが関の山だった。たしかに何度か聞いたことはあるけど。あの番組の漫画家人気ランキングでは一位だったからね。
 僕が当時読みもしないで無視する彼等に強調したのは、この作者はとかくロマンチックだのオトメチックだのという形容ばかりが付いて回り、(本人もそれを「どうせわたしは」と認めていたが)、ほかの面が全く等閑視されていることで、たとえば、

 「あなたはここでこんなに自由なんですよって踊らされているだけだと思わない?」
 「その自由さを一番利用しているのは誰よ、あなたたちじゃない」 (すくらんぶるゲーム)

 こういう会話は当時他の人の作品では見られなかった。もっともストーリーはここからまたドタバタやオトメチックラヴストーリーに戻ってしまうので、読者の頭にはほとんど残らなかったろうけど。
 そうした追求の甘さが、「すくらんぶるゲーム」を三原順「はみだしっ子シリーズ」には及ばないし、どちらも尻切れ蜻蛉に終わる欠点を持つ点は共通するという結果に終わらせ、結局「前略ミルクハウス」が代表作ということで片付けられてしまう。あれも佳い作品だけど、川原由実子の可能性を鎖してしまったという印象が強い。もっと秀作ができるはずだったのにできなかった、そんな感じ。
 そして、もし傑作短編集を編むとしたら、「午前3時のティータイム」「やねうらべや通信」「金木犀の踊る夜」「ばいばいストロベリーデイズ」といったところでしかないのに、呆然とし、暗然となるのだ。もっと秀作があったはずと思うのに、いくら探してもないんだものね。僕の川原由実子にかけた期待が大きすぎたのかもしれないな。
 でも、そうした雑念に頓着しなければ、「前略ミルクハウス」は文句なくおもしろい。だから、僕も人に薦めるなら、やっぱりこれになっちゃうんだな。寂しいけどね。

 

 
  相撲を観よう

 大相撲をテレビでひさしぶりに観た。おもしろそうだったから。夏場所の終盤からだけどね。最終的に魁皇が優勝してよかった。べつに曙でもかまわなかったのだが。
 大相撲にいつごろから関心がなくなっていたのだろう。たぶん若花田が大関になり若乃花と改名したあたりからだ。それからは若乃花と貴乃花のファンが喜べばいいんじゃないかとなんとなく感じて、強いてそれに反抗する気も起きないので、無視した。読売巨人軍なら人気と実力があるだけに、「負けてしまえ」と反発する気にもなるが、若乃花は横綱になったのが「何かの間違いではないか」「引退を早めるだけだよ」と思わせられるところがあり(事実その通りだったが)、その人気には白い目を注ぐしかなかった。あの体でよくやるよ、と。
 その若乃花が引退し、不思議に気楽に僕は大相撲をこれから観られそうな予感がしている。より楽しませてくれそうな気がする。でも、その前に八百長疑惑にはきちんと筋を通して欲しいものだね。

 

 
  長居の光景

 Jリーグ前半は横浜Fマリノスの逆転優勝で決着がついた。それもセレッソ大阪が唯今最下位より一つ上で九連敗中のフロンターレに勝てば優勝という一戦に負けたから。
 僕はテレビ中継でこの試合を観戦した。セレッソの本拠地長居には何度か出かけた縁もあるので。
 結果はVゴール負けで、セレッソ選手が立ち上がることもできないフィールドを映したカメラが、客席に切り替わる。そこで僕は一瞬信じられない光景を見た。
 観客が応援歌を唱い選手をねぎらっていたのだ。同じ関西でも、阪神タイガースが勝てば優勝という試合で負ければ球場は混乱し乱闘の一つぐらい起きても不思議はない。ここには少し違うタイプの人種が居る。サポーターとはファンではないのだと初めてはっきり感じた。
 ではおまえはどうかと尋ねられたら、僕なら沈黙を背負ってその場を去るだろう。熱狂的でなければ、ファンもサポーターもそれほど違わない。そして、僕はそのどちらでもない、所詮観客にすぎないのだ、いつまでも。

 

 
  近況

 春も深まるにつれ、しだいに執筆にのめりこむ日々が続いていました。
 初夏になり、
「残業漬けのサラリーマンじゃあるまいし」
「少しは外で太陽を浴びたら」
と数回連れ出されて、気晴らしになったとみるべきか、邪魔をされたというべきか。運動不足を補ったと解釈しましょう。
 でも、たとえ読者の数は多くなくても、僕には新作を提供する義務があるのです。だから、早く仕上げたいのです。
 かくして、今度は誘いを拒んででも仕事に打ち込もうと決意を固めていたら、だれも来ない、孤独な充実した五月の晴れた空です。

 

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