あ・はるふ・まんすりー・こめんと 2000年7月21日

 
  本物のゴリラ

 テレビ局のディレクターともなれば趣味と実益をかねて映画なども観るわけだが、売れない女性タレントと戯れの某日に出かけた映画館で、ハリウッド最新のSFXを駆使した絵に、
「まるで本物だね。すぐそばで見てもわかんないよ、きっと」
などと女が口にしたのを間に受けて、企画会議にその女性タレントを騙して合衆国の映画スタジオで特殊メイクを施したゴリラと同衾させてしまおうと提案したら、信じられないことにあっさり通過して、自分があのユニバーサル・スタジオとの交渉に渡米するはめになった。何も知らない彼女の笑顔に送られ、そのまま飛行機へ。話を切り出した途端、石持て追われ、二度とアメリカの土を踏めなくなるのではと、シビアな澄まし顔を張り付けたWASP相手におそるおそる語を継ぐも、敵は黙って頷くばかり、
「問題はそのタレントに隠し事がばれた場合ですが…」
と話を運んだところで、はじめてその男はにやりとして、口を開く。
「君はゴリラを見たことはあるか」
「動物園で、二、三度」
「そうだろう。だれだってそんなものだ。動物園の飼育係を除けばな。彼等は本物を知っている。身近で触れている者は騙すのは容易ではない。だが、ほとんどの者は本物を知らない。檻の外から遠く眺めるか、写真で覚えるかだ。中には俺達が作った合成映像を見てゴリラを知った気でいる奴等もいるんだぜ。そんな奴等に本物と偽物の区別がつくわけないじゃないか」
どうやら交渉は失敗したようだ、下を向いて、気を落ち着かせていると、
「だが、君のプランはわれわれの技術の優秀さをアピールするのに有効のようだ。できるかぎり協力しよう」

 …などというくだらない空想をしていたら、本当に先日そういう番組が放送されたとか。さすが日本のテレビ局。ただ、この番組を教えてくれた奴もそれほどきっちり見ていなかったようで、ゴリラと一緒にされた女性がカラクリを見破ったのか、あるいは最初から知っていて騙される演技をしていたのか、ハリウッドのスタッフが「飼育係でも騙せる」と豪語していなかったか、何も解らない。べつにどうだっていいんだけどね。
 さて、それからあの男はどうなったのか。

 自身たっぷりに語ったこれからの仕事相手と別れ、彼は帰りの機内で数えるのです。絶対に自分が偽者をつかまされない物、本物を知っている物、身近で触れている物を、ひとつ、ひとつ。
 もし、彼が総てを数えきれないうちに眠りにつければ、めでたし。
 でも、彼の指は、利き腕の数本、あるいは、ただの一本すら動かないかもしれない。だから、彼が何一つ思い付けず呆然としたあと、僕はたったひとつだけ彼にそれを与えたいと思います。
 それは何? 
 それはあなたが与えてあげてください。あなたが本当に知っている物を。
 僕なら?
 そうですねえ。歌でも詠んでさしあげましょうか。
 余計なお世話かな。

 

 
  偽物の美

 現代では本物の※*☆は存在しない、(※*☆に好きな言葉を入れてください)、などとよく言われますが、僕は本物が存在しないのではなく、偽物が多すぎること、そして、往々にして偽物の方が、経済的に成功しやすいことが問題なのだと思います。
 だからといって、大儲けしているから偽物と言うわけでもないんですよ。貧乏人だからこそ、今なら堂々と言えますがね。

 

 
  御哮る千春

 もうひとつテレビネタで恐縮だが。松山千春がダウンタウンとトークをするというので、彼の唄は聞きたくないけど笑いたい気分だったから、チャンネルを合わせた。今週わざわざ意識して番組を観たのは、スポーツとニュースを除けばこれだけだ。
 それにしても、さだまさしが優男振りに磨きをかけているのに、松山千春は武骨な農家の男といった様になってしまった。谷村新司のようにただのスケベ親爺にしか感じられないのよりは気持ち良いが。
 ところで、僕がその番組で驚いたのは、松山千春が〈芸術〉という言葉を臆面も無しに語った事で、「俺達の歌が、五十年、百年後にまで唄われるか」と大真面目に喋る。ボブ・ディランが毎年ノーベル文学賞候補に挙がっているのに、「おまえらはサブ・カルチャーじゃないか」なんて時代遅れなことを言いたいのでは無論ないけど、そこで引き合いに出されたのが、「ビートルズ」はともかく、「夏目漱石」なのには吹き出した。音楽家で話せよ。どうして滝廉太郎とかじゃ駄目なんだろう。あんまり最近唄われないからかな。「さくら」では古すぎるか。「(ゆうやけこやけの)赤とんぼ」は新しいか。
 「俺の歌は駄目だな」と率直に松山千春は認めていた。僕はむかし彼のセンチメンタリズムが大嫌いだったので、賛成の一票を投じるしかない。「とうさん」とかいう唄が聞こえてくると、本当に鳥肌がたった。耳を塞いで、その場にうずくまり眠りたくなる。唯一、あの頃「空ー翼をひろげて-」を気に入っていたけど、もう誰もが忘れている。「旅立ち」「銀の雨」「季節の中で」「恋」「長い夜」「Sing a Song」「大空と大地の中で」──どれも今ひとつ、あるいは、ふたつ、という気がする。好きじゃないんだから、しかたないか。嫌いでもスラスラ出てくるところが、世代の唄だ。この十年前もしくは後のシンガーなら、こうはいかない。嫌いならまったく知らない。
 しかし、彼が自作を「駄目」と判断しつつも、芸術と思い、そんな後世に残る曲を書きたいと、たとえちょっぴりであっても考えていたとは、突然で僕は笑うこともできなかった。そう、実はすべては芸術であるものと芸術でないものに別れるのでなく、すばらしい芸術とくだらない芸術があるだけなんだよ。

 

  フェルメールよりフェルメール的な

 これまであまり近頃の読書について書かずにきたけど、ちょっとユニークな本に出会えたので。
 トレイシー・シュヴァリエの小説「真珠の耳飾りの少女」を(もちろん翻訳で)読んだ。おもしろかった。
 オランダの画家フェルメールとその家族を題材に、フェルメールの絵のモデルの素生がほとんど伝わっていないのをいいことに、自由に創造を試みたものだ。フェルメールの絵を眺めているとそのモデルについていろいろ空想してみたくなるのは、僕だけではなかったのだとわかっただけでも収穫。シュヴァリエも絵を眺めているうちに、モデル達が自然に動き、語り出したのではないだろうか。
 その結果、ユニークな効果が生まれた。僕等は名高い「牛乳を注ぐ女」や「青いターバンの少女」の肖像がそのまま動いている錯覚を味わえる。本来、小説とは文章だけでその登場人物を描写するべきものだが、この作品の場合は絵画に描かれた人物が活動するのだから、写真でしか知らない実在人物を扱ったものより絵像がくっきりしてしまう。読者はヒロインがあの有名な絵の通り、青いターバンを巻き、真珠の耳飾りを嵌めるところを、息をひそめて見守る。その後にくるセックスシーンをあっけなく感じさせるほど、この変身がエロティック。描写について考えると、頭が痛くなるシーンだ。美しいけど、これはどこまでが文章の力なのだろう。フェルメールの助力がありすぎる。
 ストーリー上のテーマはお馴染み「芸術家」対「市民」を内蔵。商人の注文に応じる市井の画家フェルメールは、唯美主義と距離を置き、凡庸な庶民を題材として、民主主義体制に好まれる偉大な芸術家となったのだけど、彼をすら芸術至上主義者に描くことで小説はよりフェルメール的になった。でも、これってちょっとずるくないか。ここでもフェルメールの勝利をふんだくっているだけな気がしてならない。近頃の流行りと言ってしまえばそれまでだけど。
 高貴な物、優れた物、美しい物が動かなかったら、流行がない。中世のようになってしまう。否定したり無視したり遠ざかったりするのは簡単だけど、縁を切るのは容易じゃない。その代わり、近付こうとするとそっぽを向かれたり肘鉄をくらわされたり。永遠のいたちごっこだ。それが嫌なら、もう死ぬしかないよ。
 でも、個人的には、あの〈牛乳を注ぐ女〉をこんな意地悪い女に設定して欲しくはなかったなあ。

 

 
  近況

 「今月の作品」について、ああいう未発表作を出すくらいなら既発表・未刊行で一番佳い作を載せた方が良くはないかと知人から忠告をいただきました。ありがとうございます。でも、改めて刊行するならともかく、どこかに載っているならそちらで読んでいただければ良いのではないかと。八方手を尽くせば(そういう酔狂の気があるなら)読めるでしょうし。がんばってください。
 月初めからアレルギーで通院してます。今も薬漬け。アレルギーって恐いですね。今月は半分寝てしまいました。

  寝て暮らすうちに終わった夏休み

 小学生なみの駄句で、では、さようなら。

 

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