あ・はるふ・まんすりー・こめんと 2000年10月10日

 
  「南の島」食べある記

 「ちょっと南の島へ遊びに行ってくる」
と冗談をとばしたら、本気にした人もいたらしい。
 その旅先で食べた物。ミミガー、ポーポ、チンビン、グルクン、ミーバイ、バクダン、イラブチャ、ドゥルテン、ティビチ、ナーベーラープシー、タンナファクルー、サーターアンダギー、イナムルチ、ボロボロジューシー、タコライス、ゴーヤーチャンプルー、ジーマーミードーフ、トーフヨー、フーチーバーソバ、ソーキソバ、ナカミジル、ヘチマ、チンスコウショコラ、等々。
 そう、知人が来ないかと誘ってくれたので、沖縄まで出かけただけ。
 ちなみに、一週間足らずで、交通費、宿泊費、食費、土産代、その他、すべて含めてほぼ三万円だったから、まずまず。往復運賃だけで五万を越えるような旅なら、最初から行かない。
 それで、楽しかったかというと、首里城は害虫駆除で閉まっているし、案内されたビーチは頑丈なネットに囲まれ信じられないほど狭く、僕はさっそく沖へ脱走を試みたのだけどそのすぐ先には赤い文字で「鮫に注意」の看板、そのあまりにも丈夫すぎるネットが急にリアリティを持って迫ってきたほか、悪いことを数え上げれば切りがないのでむなしいからやめよう。
 「東京に戻ったら『琉球旅情』なんて本を書くの?」
と着いた早々尋ねられたので、頷いておいたけど、歌句はあまりできなかったから、歌集の一章にもなりそうにない。到底無理。
 そのかわり、今月これだけで毎週更新できそうなほどの雑文ネタは拾ってきた。そんなの一体どうすんだって、書くしかないでしょう。一部でもさ。
 一番衝撃的だったのは、「みるくぜんざい」で、普通のぜんざいにミルク味のかき氷が乗っかった物。発想がやはり温暖の地。
 「沖縄の中高校の男子はみんなでこれを食べる」
とその琉球人は教えてくれたけど、本当だろうか。
 「女子は洋菓子屋でケーキ」
本当だろうか。ちなみに、ケーキの値はみるくぜんざいのおよそ倍だぞ。ケーキならさらに紅茶付きだろうし。ぜんざいなら只のお茶で充分だが。
 沖縄には茶にもずいぶんユニークなものが多かった。サンピン茶とかウコン茶とか。ビール・メーカーも初耳だったし、ボンカレーはGOLDではなく懐かしい和服姿のおばさんが微笑んでいた。
 「GOLDにしたら売り上げが暴落して元に戻したんだって」
 本土の舶来品も沖縄では日本らしさが求められてるのかもしれない。
 そのビール・メーカーはウェハースも売っている。おいしいのはやっぱり気候のせいだったのだろうか。本土に戻って同じ物を食べてもちっともおいしくなかった。
 もっと書きたいのだけど、それはまたいずれ。

[付記] 「あ・はるふ・まんすりー・こめんと 46」に続く。

 

 
  空洞化する

 不思議なことが、最近の永田町で二つほどありました。
 まず、政府は十代に無賃労働を強制する法案を提出するそうです。
 それで一体どうなるのか知りませんが、自分が中学生だったらどうするか。サボるかもしくは仮病を装おうというのがまず一番確率高いけど、その次は、奉仕が大嫌いになる、でしょうね。
 僕は政治家でも中学生でもないからどうだっていいんだけどさ、誰がそんなこと思い付くんだろう。
 もうひとつは、某閣僚の愛人問題です。報道によれば、男なら妾や愛人の一人や二人いて当然と政治家の皆様は考えておられる様子。僕なら法制度そのものが嫌なので、「そんなこと個人の勝手、ほっといてくれ」と言いますが、これはあくまで政治家の話です。
 正しいのか否かは敢えて保留し、「男なら妾や愛人の一人や二人いて当然」という前提で書きます。するとやっぱりこれは大いなる問題だと捉えざるをえません。これが何処かの酒場での論議ならどうだって善いんですが、発言者が政治家だと話は別です。
 というのは、現在日本の社会制度は総て一夫一婦制が前提なのですよ。妾や愛人の存在はまったく考慮されていません。そんな者は存在しないというが如く。その点は古代から近世の方がはるかに現実的です。第二夫人ともいうべき立場がちゃんとあるし、正妻と比べてもある程度容認された形で保護されています。妻妾は同様に軽んじられていた、とすべきかもしれませんが。
 どちらが善いというのは難しい問題です。ただそういう制度を作るのが政治家の仕事ではないのでしょうか。もし妾や愛人の存在が当然視されるなら現在の法制度は史上稀に見る現実無視の異状事態と断じざるをえません。
 僕が書いたのは政治家の現実認識と法制度の不一致の問題です。一夫一婦制にせよなんにせよ社会秩序をより強固にするならきちんと範をたれるべきではないでしょうかね。自分自身守るつもりのない規律なら、作れば作るほど全体が空洞化するばかりですよ。
 そして、その時は間男の権利も盛り込まなければいけないかもね。ああ、恐ろしい。

 

 
  カムイ伝について、ちょっと

 よそのホームページで、前回の本欄に関し「カムイ伝には第二部があったような」と御指摘を受けました。
 たしかにあの文章ではカムイ伝には第二部と呼べる物はまったく存在しないというふうに受け取れますので、今断わりを入れます。
 現在「カムイ伝」として刊行されてるのを作者は第一部と呼んでいるらしいです。その点、まぎらわしい話ですね。
 関係ないですが、「かむいでん」と<ことえり>で打ったら、最初ちゃんと「カムイ伝」と変換された。二度目は「噛む遺伝」だったけどね。<ことえり>ってのは、まったくどうなってるんだろう。

 

 
  言葉遣い

 昭和四十年代の歌謡曲を今耳にすると、「ら抜き言葉」が多いのに驚きます。平成になるともう明らかに「ら抜き」が主流ですけど、そう考えると、僕が幼い頃から聞いてきた同時代の歌はほとんど「ら抜き」だったんだ、と改めて気付かされるのです。
 「ら抜き」が主流になるのはいつかなあ。たぶん歌謡が一番先で、短歌が一番後なんでしょうね。
 人から聞いたのですが、劇作家の永田愛氏はロシア人に自作の戯曲「ら抜きの殺意」の筋を尋ねられ、絶句したそうです。日本語を知らない人に「ら抜き」をどうすれば説明できるか。とりあえず、そういう立場にはなりたくない。
 さて、現代歌人の記す文語体についてちょっと書いたらちょっと反発が来ました。予想されたことですが。
 僕は口語体で詠んでるから、本当はこんなことどうだって良いんです。ただ歌書を読んでて時々これは文法的に正しいだの誤りだのというやりとりがあまり目について、しかも、これは万葉なら正しい、古今ならちょっと、ただし芭蕉ならどうこう、と延々続く。同じ文語でも日本語文法が千年以上不変であったはずはないから、そんなささいなことで揉めている。古今集の誰某が間違っているうんぬんではなく、現代歌人の詠ですよ。もちろん和歌には一応の決まりがちゃんとあるにしても、何やってんだか、とあきれることしきりで。
 そりゃあ違ってるのより合ってる方が善いに決まってるけどさ、僕にはそんな永久不変の文法があるなら、動脈硬化で死を宣告されたも同然じゃないかと考えるんです。
 個人的には、文語で書くなら、森鴎外の獨逸三部作をちょっとアレンジしたものなんかどうだろうと思いますが。これは歌でないか。
 昔は僕も文語で数百首の歌を詠みました。悪い体験ではなかったですけど。

 

 
  今年度の「短研」評論賞

 『短歌研究』を手に取る。評論賞の発表があった。読みたかったのはもちろん受賞作なんだけど、もうひとつ、抄録に穂村弘論というおもしろいのがあった。
 抄録だから一番良い部分が載せられているはずであり、全文を読まないと即断はできないけど、論者の指摘はおそらく穂村氏の“魂のフィアンセ”(と氏はのたもうているという)林あまり氏にも当て嵌まるところがあるかもしれない。これはかなり僕の興味を惹いた。それは論者の視点に僕の関心を同じくするものがあったというにすぎないのだから、個人的には、受賞うんぬんより全文掲載されなかっのは残念だった、というしかない。評論は物故者が楽だというのはたぶん本当だと思う。
 受賞者にはもうあちこちでいろいろ言われてるだろうから「おめでとう」だけでいいよね。

 

 
  雑誌不況

 「夜想」「Wave」「Ur」の出版社ペヨトル工房が解散を決めたそうです。残念。
 でも、不況とか言われながら、あいからわず文芸雑誌(並びにその親戚)って多いよね。全部読んでられねえよって粗方読んでるんだけれど。

 

 
  一体感

 某少年が母親を殺害した事件は一時世間を大いに騒がせたが、その理由は事件の直前に少年が学友に暴力をふるい「殺した」と早合点し「母に迷惑がかかる」と考え殺害に及んだ、と自白したその経過による。
 他に動機があるのではと勘繰る人が続出したらしいが、真相はともかく、この日本という国ではそういう発想で殺人が起きても不思議じゃないな、と思っていた。
 すると、しばらくして似たような事件がまた報道された。
 ある主婦が「浮気をしている(と思い込み)」夫を殺害した後、「家族に迷惑がかかる」と、二十五の会社員である次女を刺し殺し、三十前後の長女夫婦にも襲いかかったが失敗、自分も死にきれなかったという。
 何が「迷惑」だ。身内の不祥事はたしかに迷惑だろうが、殺される方がはるかに迷惑だ。
 再度繰り返すけど、事件の真相には興味がない。しかし、これはけっして不思議でも何でもない事件だ。
 この国には集団(家族でも企業でも何でも)の一体感について勘違いしている人が多すぎる。だから迷惑のおとしまえまで歪むのだろう。これが<日本の近代>ならば、前近代的に独り腹を斬る方がまだしも立派に見えてしまうのが困ったもの。あるいは、これこそ五人組的発想で前近代の名残りとも解釈できる。
 いずれにせよ、この国に<個人>が根付くにはまだ遠そうだ。

 

 
  近況

 今月初めはよそのホームページで遊び過ぎ、ちょっと疲れた。頭を使う会話なんて長い間してなかったので、コツがなかなか思い出せなくて。執筆とはずいぶん頭の使う部分が違うから。
 たまたまあれを書けとかこういう歌を作って欲しいとかほとんど頼まれなかったし、(沖縄詠はできなかったし…半分冗談だろうからね)、メールと掲示板に明け暮れてしまった。こんなことで忙しくても困るのだが、退屈よりは良いか。
 退屈とは状況ではなく感情だと知ったのはいつだったろう。
 「しなければならないこと」を放り出し、「やりたいこと」を捜したりするから退屈が生まれる。時には「しなければならないこと」が「休息」なのに気付かず「しなければならないこと」や「やりたいこと」を捜すから、退屈はすぐ身近になる。
 退屈は倦怠に通じる。でも、それは、政治、経済、社会、共同体、宗教、家庭等と同様、ひとつのフィクションだから、これらのどれかを(あるいはすべてを)信じてこそ真人間と認められるのさ。本当だよ。
 だから僕は生きているけど、生活は成立しないんだな。なんてね。嘘さ。それなら、とうに死んでる。
 僕は今の自分に不満を感じてる。と同時に、満足もしていたりして。それは自分がなにはともあれベストを尽くしていると信じられるから。それだけで良いんだよ。

 

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