あ・はるふ・まんすりー・こめんと 2000年12月7日

 
  笑い話です

 おかしなこともあったもんだ。
 明日の文学はどうあるべきか、そこでさしあたって僕自身が懸命に何をしているのかを説明する必要に迫られたので、喋ろうとするのだけど、口が思うように開かず、それでもなんとか顎を動かし、話し始めたのものの、頭は回っても喋りはつっかえひっかえ、ちっとも進まず、負けるな、がんばれと、必死に自分を励まし、論じ続けて、あれ、これはひょっとして夢じゃないかと気付いても話はやめず、さらに意識がはっきりしてくると、口籠った調子で寝言を並べてる自分がいた。
 朝だ。
 目がはっきり覚めてから、黙り込むと、顎が疲れて重い。もう何を言ったのか覚えていないけど、まさに寝言のようなことだったに違いない。
 しかし、もし僕が誰かと寝ていたとして、隣のそいつが突然そんなことを演説しだしたとしたら、ぶん殴ってやりたくなるだろう。嫌な野郎だ、まったく。

 

 
  無冠の「少年H」

 瀬尾河童氏の「少年H」が文庫化された。瀬尾氏の実体験に基づいた作品としてベストセラーになり、話題を独占しながら、たいした賞も貰えなかったとか。どうしてかというと、作者がテレビや雑誌等で実体験そのままとふれて回りながら、後日に歴史的事実と異なる点が溢れるように見付かり、それが受賞対象から外れる原因のひとつになったという。
 つまりテレビのインタビュー等でそういう類の発言をしたのがまずかったらしい。
 文芸誌だったら何の問題にもならなかったろうに。作家が正直に作品の裏話をするなんて誰も最初から信じてない。虚構を交えるのが、むしろ普通という世界。そんな奴しか読まないから文芸誌は売れないのかもしれないけど。
 でも「あれはフィクションです」「ただのオハナシです」と喋っていたら、あれほど売れなかったんだろうな。
 最近、芸能人の実体験本というのが、どれも好調な売り上げをしているそうだけど、あれなんかもどこまで事実か解らない。どちらかというと、「どこまで本当だか」と眉に唾でも塗りながら読むのが正しいのではないだろうか。
 でも、すると「これは本当です」が建て前である嘘だらけの本と、「これは嘘です」と言いながらこっそり事実を混ぜている本の差はどのへんにあるのだろう。念のために添えておくけど、これは私小説と本格小説の比較じゃないよ。なぜならこれらは、小説でも、物語でも、お話ですらないらしいのだから。
 じゃあ、何? エッセイ? 自伝? 嘘だらけでも?
 まさか。

 

 
  おっはー

 今年の新語・流行語大賞は「おっはー」と「IT革命」だそうだ。
 子供の頃から流行とは縁遠い自分だけど、この賞の受賞作で近年「それ何」「知らない」と言いたくなったのは、さすがに「ブッチフォン」ぐらいしかない。あれはアベコベに大賞受賞で有名になった。受賞者の小淵首相亡き今、忘れ去られるのも時間の問題だろう。
 しかし、「おっはー」の受賞というのは妙な気分だ。十代を想い出しても、この言葉を使っていた奴は結構身近に居た。漫画に描かれた事もあったはず。世間一般には認知されていなかったものの、新語というほどじゃない。
 報道に拠れば、この言葉は早朝子供向けテレビ番組スタッフの発案で採用され、司会の山寺宏一が子供に広め、流行歌の詞に取り入れて唄った歌手・香取慎吾が一般化して、受賞者は香取となったとか。
 こういうのは誰を受賞者とすべきなのか判断が難しい。最初に「おっはー」を思い付いたのが誰なのかは永遠の謎だ。
 芸術の世界なんかはなおさらそうで、たとえば昔エレキギターのフィードバック奏法を始めたのは誰かでよく揉めたけど、ようやく「最初にレコーディングしたのはビートルズ」に落ち着きつつあるものの、まだ釈然としないものを感じる。文学だってそうだ。最初にいろいろ始めたって別に誉められるとは限らない。真似されるだけされて大抵誰からも一言もないんだよ。明らかな盗作でなければ文句も言えないのさ。それがおもしろくないなら、もう創作を辞めるしかない。
 まあ、こちらは思い付くのが好きなんだから真似したければすれば、という調子でやるしかないのさ。ほんとだよ。
 ところで、「IT革命」の方は、現首相が自分を受賞者にしなかったと激怒されたとか。事実ならこれこそ笑い話だ。
 二年連続現職総理大臣の受賞などという愚を避けた選考委員に拍手。

 

 
  現代歌人文庫刊行再開

 第2期現代歌人文庫の刊行が、ようやく再開したらしい。『続・福島泰樹歌集』をさっそく買って来た。
 広告を見たのも、『続・塚本邦雄歌集』が出たのも、ずいぶん前の気がするけど、思い過ごしだろうか。
 無事出たのだから、まあ良いか。
 第1期同様、全巻揃えたいとは全く思わないけど、期待しよう。

 

 
  近況

 疲れてます。
 オウム真理教を思わせるスキンヘッド姿で<教祖>を名のり、マスコミを使った<布教活動>をしている歌人の作について、尋ねられるままに某所に少し書いたら、猛反発が来て、結果、その人物への批判を今月延々書き連ねることになった。さすがに後味が悪い。
 最後までその<教祖>を支持したのは一人だけで、その作品の陳腐さ、古臭さを他の人からも批難されたから、なおさら気分が良くなかった。そこで僕等はいつのまにか地下鉄サリン事件前のオウム信者と一般大衆のような関係を築きつつあったのだから。
 それは、洗練されていない、単純で蕪雑な粗悪品だ。実物を引用して批判するのはもうよそでさんざんやったから控えるけど、その認識背景にあるのはテレビ番組やヒット曲やベストセラー本で、冗談としか思えない。いや、本人は大真面目なのが、他人には笑ってすまされ、<信者>には進んで受け入れられるから、困るのだ。有識者にはお笑いと映り、あるいは粗悪品と見えても、一部の人はその言葉に理性を通さず喜んで自我を捧げているのだから。
 哀しいのは、複雑で総合的な思考を、あんな事件があった後でも、人々はけっして求めていないらしいということ。そして、<教祖>が自覚しているのは、そういう社会背景と、そこで経済的成功を修めるコツだけらしいということ。だから<教団>は拡大する。
 しかし、今回一番恐ろしかったのは、そこでは一読者が無自覚のうちに「信者」の役を負っていたのと同様、自分がいつのまにか「江川紹子」になっていたことだった。
 気分はかなり落ち込んでいる。
 「中沢新一」を無自覚のうちに引き受けている方もいらっしゃるようだ。
 今日、本屋へ行くと、その<教祖>の著書が平積みされていた。
 頭が少し痛んだ。

 

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