あ・はるふ・まんすりー・こめんと 2001年4月24日

 
  四月十日火曜日のランチ

 昼食にそばめしと文旦を取る。どちらも始めて口にした。
 そばめしとは、本来は要するに焼き蕎麦に昨晩の余り物の御飯をぶちまけて一緒に焼いただけの物だろう。これを商品にするとはナンセンス、しかしそれを実際に購入してる自分はもっとナンセンスか。
 文旦は直径二十センチ以上もある柑橘類。グレープフルーツ等と同様の厚い皮。意外にうまい。
 午後、バロウズ「裸のランチ」を読む。ずいぶん変わったランチだった。
 どうしてそんな古臭いのを読むのかって? さあ。何かと間違えてたのかもしれないな。もう最近誰も書かない美しい書だった。いや、汚い書だった。どっちだ。同じ麻薬の本でも、ボードレール「人工楽園」なんかは本当に綺麗だけど。「きれいはきたない、きたないはきれい」ってのは「マクベス」の魔女のセリフだっけ。綺麗がなければ汚いもないのは確かだけどさ。だからどうした。
 支離滅裂。
 この部屋のゴミ箱に皮を捨てたから、今、文旦の酸っぱい臭いが充満している。かなり強烈。おかげで文章の調子もいつもと違うよ。すると、この文の作者は文旦かも。なんてね。

 

 
  告白したいことは

 ネット書店で新刊書の広告文をつらつら眺めていたら、印象に残る一行がありました。
 「だれにだって告白したい心のキズはある」
 はあ、そうですか。これは近頃のベストセラー本の特徴を言い当てた見事な表現ではないでしょうか。
 おかげで僕が最近の話題本に食指が動かない理由も解りました。
 たぶん僕に関心があるのは「告白したくない心の傷」、いや、「どのように述べればわからない心の傷」、それよりも「傷付いていると自覚できないほど深い心の傷」、しかしもっと興味深いのは…、でも、これらは告白本やノンフィクションにはなりませんね。暴露本はもっとくだらないし。たいてい嘘ばっかりだから。
 或る学者いわく、「読者を軽蔑する編集者は、軽蔑すべき読者しか得られない」のだって。たしか。記憶、どこか違ったかな。
 するとやっぱりブンガクしかないか。しゃあないね。でも、「裸のランチ」は「告白したいこと」だらけだったな。

 

 
  「内面の声」は嘘つき

 本当に近頃何を読んでもおもしろくない。特に短歌は最低だ。どうしてこうなってしまったんだろう。
 「内面の声」というものがある。本を読んでいると、しばしば「…と私は思った」などといった形で見かける。あなたもあるでしょ。
 こんなのは大昔からあって、「源氏物語」「今昔物語」にでもある。ただし、今と少し違うのは、「あな憎し」と書いてあれば登場人物はまぎれもなく心底相手を憎みきっているのだし、「殺めんと思ひて」とあれば彼は間違いなく本当に相手を殺そうとする。昔の物語ってのはそういうものだ。
 明治の代になり、近代文学が口語表現を取り入れると、「内面の声」はより頻繁に使われるようになったんだけど、するとしだいに作者達は「内面の声」が実際とは大きく異なることに気付かざるを得なくなってくる。「殺したいと思う」たびに本当に殺してたのじゃあ、リアリティも糞もない。小説や現代詩はこの問題を逆手にとって表現の幅を広げてゆく。歌謡曲では「嫌い」を連発するラヴソングという紋切り型まで登場してきた。「内面の声」が「嫌い」だなんて言っても、誰も信用なんかしないんだ。そんなもんだよ、「内面の声」なんて。
 一方、近代になっても短歌や俳句は「内面の声」を軽視してきた。おそらく最大の理由は口語表現をほとんど取り入れなかったからだろう。それにこんな短い詩型に、こんなに信用のおけないものを、そう安易には使えるはずもないのだ。邪魔なだけ。
 でも、昭和末期になり、短歌にも口語が積極的に取り入れられようになると、必然的に「内面の声」の出番も増えた。口語派として、僕もずいぶん使った。でも、慎重に試みたつもり、「内面の声」が即自分の本音と云う時代錯誤な表現は懸命に避けようとしてきた。
 ところが最近あちこちで(特にネットの世界で)そういうアナクロな歌を見かける。「内面の声」を口語でそのまま五七五七七の三十一文字に当て嵌めただけ。
 他ジャンルの表現者の嘲笑が聞こえる。短歌はいつまで明治時代やっているのか、と。
 ほんとだよ。なさけない。
 たとえば「嫌い」という言葉でもちゃんと愛を表現できる言葉の名手に会いたい。僕も僕なりにやってみるからね。

 

 
  ざれ歌

  大嫌い大きらいYeah!だいキライダイダイキライ大大大スキ !!

 なんちゃって。
 …ダメだ、こりゃ。もっときちんとしないと。

 

 
  工事中

 僕の仕事場にして住処でもある一階の部屋と、道路を隔てた土地で、工事が始まっている。某新聞販売所を建てるのだとか。
 執筆しながらでも、狭いベランダへ続くドアのガラスとカーテンを通し、丸見え。地鎮祭から眺めるともなく眺めてきた。
 元は駐車場だったので、水道配管からガス管新設までしている。何度も舗装路を掘ったり、埋めたり。当然やかましい。工事人の表情から汗までが、目の前なんだ。それでついつい彼等の仕事ぶりを観察している。親方よりも熱心さ。
 鶴嘴なぞ振り上げて掘り続けている姿に、大変そうだな、ふとそう思えば、いや、言葉を掘っては削っているこちらだってなかなか大変なんだよ、収入も不安定だしさと愚痴を並べそうになり、かと言って、彼等を観察するのにも厭きると、すぐ横になるに決まってる自分がわかっているから、ただ黙って外を眺めている。今日も暑い。
 彼等のためにも、僕のためにも、日射しがもう少し柔らかければ良い。春にふさわしい空に。

 

 御意見、御感想がございましたら、お聞かせください。
 無断転載は禁じます。Copyright(C),Miyake Satoru,2001

Online Order

書店でなくても本は買える!
 

次回

前回

あ・はるふ・まんすりー・こめんと 一覧   三宅惺ホームページ