M氏の事件
ビートルズの映画「ハード・デイズ・ナイト」でポールのおじいさん(?)が、「本を出て町へ出よ」と叫ぶ。「町にこそ楽しみがある。私には想い出があるが、君には本だけだ」 まったくその通り。真の快楽は外界にある。 それでM氏はビデオを捨て、町に出たのだろうか。 それは違う。 ともかく、僕はただただ感嘆の声を挙げるばかりだ。行動する芸術家なんてのも、あんな者である。散文的なグリコ・森永事件に対して、この詩的美はどうだろう。ヒトラーとは違った意味での(比較に値しないほどチャチなところが、また現代的だ)、あまりに人間愛に満ちた反社会性、非人間性。モラルや生活レベルにより批判するのは簡単だが、僕にはできない。そこには文字の上に留まっている自分の嫉妬がかいま見えるのだ。無視も殺せぬ軟弱者は、読書でもしてるしかないのだ。
(1989.8.20記・「ぼくは殺しはしたくない」冒頭部)
幼女連続殺人容疑者のMは、二審でも死刑判決が出た。今そのことについて興味はない。 事件のしばらく後、彼について書いた。事件に感じたもやもやを処理しようとしたんだけど、おかげで却って彼が気になりだす。 もやもや。 それについて、いつか事件について真正面から取り上げてみたいと考えるままに、裁判が長期化し、その争点が思わぬ方向にずれてきて、結局何も書いていない。 怠慢だな。書きたいことはいっぱいあるはずなのに。 でも、もし言いたいことを一つに絞るなら。 事件後、次々報道されたこと。それはこの男がこの世界において生きてゆくには決定的に不適格であり、生活能力はゼロである、ということに尽きた。おそらく、事件が起こらなければ、おそらく両親の死と共に彼は行き場を失い、なんらかの犯罪をおかしたか、野垂れ死にしただろう。溢れんばかりに流れた彼の情報を目にした者は、その自閉・対人恐怖・突発的行動等に驚き、呆れ、まともな暮らしが送れる奴じゃない、と納得するはずだ。そして、そう考えていたのは、誰よりもM自身だろう。 しかし。彼はいまだに生きている。両親が亡くなった、今も。死刑が執行されるまで。されなければ、無期懲役として、獄中で生を終えるだろう。事件がなければ、とっくに路頭に迷うはずの男だ。 世の中には、生き延びることがすべてだ、と主張する人がいる。それに倣えば、事件を起こすことで、とりあえずまだ生き延びているMの行動は、彼にとってのみ全面的に正しいのだろう。彼は今も間違ったことをしたとはこれっぽっちも思っていないはずだ。そして、早逝するはずだった運命を笑い、凱歌を挙げているに違いない。たとえ明日死刑が執行されたとしても(そういうことがあるはずもないけど)、おそらく彼は満足だろう。 生き延びることがすべてならば。 僕には時折、彼の特異性は、彼自身の発想の独自性ではなく、戦後的価値観の一面のみを増幅させた結果にほかならないと思える。軍国時代の急進的右翼少年のように。 そこまでして生き延びたいかい? 俺は御免だね。ああ、割腹も、殉死もね、嫌だね。 これが冤罪だとしても(その可能性はきわめて低いが)、彼にとって事情は何も変わらない。なんておかしな事件なんだろう。 僕等は生き延びることがすべてだとしても、それを引き受けて、別の場所へ、二十世紀的価値観から抜け出していかなければいけないんじゃないかな、なんて。そう思えるのです。
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