あ・はるふ・まんすりー・こめんと 2001年7月2日

 
  M氏の事件

 ビートルズの映画「ハード・デイズ・ナイト」でポールのおじいさん(?)が、「本を出て町へ出よ」と叫ぶ。「町にこそ楽しみがある。私には想い出があるが、君には本だけだ」
 まったくその通り。真の快楽は外界にある。
 それでM氏はビデオを捨て、町に出たのだろうか。
 それは違う。
 ともかく、僕はただただ感嘆の声を挙げるばかりだ。行動する芸術家なんてのも、あんな者である。散文的なグリコ・森永事件に対して、この詩的美はどうだろう。ヒトラーとは違った意味での(比較に値しないほどチャチなところが、また現代的だ)、あまりに人間愛に満ちた反社会性、非人間性。モラルや生活レベルにより批判するのは簡単だが、僕にはできない。そこには文字の上に留まっている自分の嫉妬がかいま見えるのだ。無視も殺せぬ軟弱者は、読書でもしてるしかないのだ。

(1989.8.20記・「ぼくは殺しはしたくない」冒頭部)
 

 幼女連続殺人容疑者のMは、二審でも死刑判決が出た。今そのことについて興味はない。
 事件のしばらく後、彼について書いた。事件に感じたもやもやを処理しようとしたんだけど、おかげで却って彼が気になりだす。
 もやもや。
 それについて、いつか事件について真正面から取り上げてみたいと考えるままに、裁判が長期化し、その争点が思わぬ方向にずれてきて、結局何も書いていない。
 怠慢だな。書きたいことはいっぱいあるはずなのに。
 でも、もし言いたいことを一つに絞るなら。
 事件後、次々報道されたこと。それはこの男がこの世界において生きてゆくには決定的に不適格であり、生活能力はゼロである、ということに尽きた。おそらく、事件が起こらなければ、おそらく両親の死と共に彼は行き場を失い、なんらかの犯罪をおかしたか、野垂れ死にしただろう。溢れんばかりに流れた彼の情報を目にした者は、その自閉・対人恐怖・突発的行動等に驚き、呆れ、まともな暮らしが送れる奴じゃない、と納得するはずだ。そして、そう考えていたのは、誰よりもM自身だろう。
 しかし。彼はいまだに生きている。両親が亡くなった、今も。死刑が執行されるまで。されなければ、無期懲役として、獄中で生を終えるだろう。事件がなければ、とっくに路頭に迷うはずの男だ。
 世の中には、生き延びることがすべてだ、と主張する人がいる。それに倣えば、事件を起こすことで、とりあえずまだ生き延びているMの行動は、彼にとってのみ全面的に正しいのだろう。彼は今も間違ったことをしたとはこれっぽっちも思っていないはずだ。そして、早逝するはずだった運命を笑い、凱歌を挙げているに違いない。たとえ明日死刑が執行されたとしても(そういうことがあるはずもないけど)、おそらく彼は満足だろう。
 生き延びることがすべてならば。
 僕には時折、彼の特異性は、彼自身の発想の独自性ではなく、戦後的価値観の一面のみを増幅させた結果にほかならないと思える。軍国時代の急進的右翼少年のように。
 そこまでして生き延びたいかい? 俺は御免だね。ああ、割腹も、殉死もね、嫌だね。
 これが冤罪だとしても(その可能性はきわめて低いが)、彼にとって事情は何も変わらない。なんておかしな事件なんだろう。
 僕等は生き延びることがすべてだとしても、それを引き受けて、別の場所へ、二十世紀的価値観から抜け出していかなければいけないんじゃないかな、なんて。そう思えるのです。

 

 
  歴史は繰り返さない

 だいたい順番に挙げていくと。
 民主社会の発達、好景気、「先進国に追い付いた」、天皇崩御、世界的規模における軍縮、伝統回帰、不況、大震災、テロ集団による大量殺人、金融企業の相次ぐ倒産、失業率増加、「新しい復古」の気運、増える自殺者、共産党の衰退、そして緊縮財政を称えるライオン首相の登場、等々。
 これ、全部、大正から昭和初期の話。
 気味が悪いほど、現代に似ている。
 なお、ライオン首相というのは、当時の浜口首相のニックネームです。今の小泉さんと同じだね。
 ちなみに、昭和はこの後、景気悪化、衆院解散・与党勝利、アメリカ発の世界恐慌上陸、経済混乱、大蔵大臣とライオン首相の暗殺、五・一五事件(政党政治の終わり)、膨張予算に転換、二・二六事件、かくしてわずか五年でファシズム体制と相成るのです。
 経済混乱あたりまでは、今回も似たようなものだろうな。
 歴史は繰り返さない、とミラン・クンデラは言った。では、似ている点は幾らか挙げたから、これから違う点も考えよう。
 一番違うのは、いつか来た道と知っていること。たぶん。「最初は悲劇、二度目は喜劇」と云うが、何度目だろうと笑える気分じゃないよ、まったく。

 

 
  「マレーナ」

 トルナトーレ監督の「マレーナ」が上映されている。
 かつて「ニュー・シネマ・パラダイス」ではトルナトーレ監督の映画への思いに感動した。僕には映画への愛なんかないけど、何ものかへの愛には惹き付けられる。All you need is love. 本当だよ。
 以来、僕にとって気になる映画監督の一人なのだ。
 ところで、この映画は、戦地の男を思い続けていた美女が、その死を知らされ、やがて娼婦に堕ちる話。なんだ、かつての名画、ルロイ監督作「哀愁」の世界じゃないか、すると美女マレーナ役のモニカ・ベルッチはさしずめヴィヴィアン・リーか、と思ったら、主役のレナート少年が覗きばかりしてるのは、あれこそ「映画という装置そのもの」に見えてきた。
 レナートは欲望に苛まれている。少年の性は何かに刺激されない限り簡単には発達しない。スクリーンに大写しにされたヴィヴィアン・リーなら、まさに効果覿面に少年を挑発するに違いない。事実、レナートは映画少年で、映画を観ては、自分を主役に、マレーナをヒロインに当て嵌め、楽しんでいる。
 かくして僕の空想は、「哀愁」を観つめるレナートならぬ幼き頃のトルナトーレ少年の焦燥に至る。すると、途中までこれほど戦地の男がまったく無視されるのだから、少年にはヴィヴィアンの相手役ロバート・テーラーなんか最初はまるで目に入らなかったんだな。うん、当然だ。
 もっとも、最後まで目に入らなかったなら、ただの駄作に終わったはずのこの映画、少年のささやかな行為で、ヒロインの運命は一変する。少年は美女を救いたかったのだろうし、それも自分の英雄的行動によって成し遂げたかった。そこで漸く戦地の男の登場となったわけだ。自分ができることをする。冒頭部から大人になりたくてしかたがなかった少年は、こうして本人の望まない形で少年期に別れを告げる。
 それも監督が自分を冷静に語れたから。だから、物語は違和感なくファシズム政権下のイタリア史に引き付けられている。レナート少年は、自分の妄想の中でハリウッド映画の枠組みをそのまま借り、時には西部劇のガンマンなどに浸っていたのに。
 でも、そう好意的に受け取りながらも、ラストで「僕の心に残る女性はあの人だけ」と告げて締めくくられるこの映画の撮影後、トルナトーレ監督がモニカ・ベルッチに惹かれ、結婚してしまったと聞かされると、自分の創造に引き摺られた結果と邪推したくなる。すると、やっぱりこの人は永遠の映画少年なのかもしれない。なにしろ、あの「ニュー・シネマ・パラダイス」の作者なのだから。
 まあ、とりあえず空想はここまで。
 覗きは映画の本質。あるいは、小説も。覗きながらハラハラしたりドキドキしたりする為にあるんだよ。
 もちろん、近代の詩歌句も。
 まあ、覗いてりゃ良いってものでもないんだけどね。
 それならどうすれば良いかって? それは、きっとレナート少年が教えてくれるよ。

 

  水に勝利

 申し後れましたが、「VS.水」で記した水(道局)とのゴタゴタは、半年をかけて、向こうがこちらの要求を全面的に受け入れることで決着しました。*万円の水道料は撤回され、通常並み。
 ふう。
 ああ、疲れた。
 それにしても、普段、海や恋や空や孤独を歌っている俺が、散文だとどうしてこんなのになっちゃうのかな。

 

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