ポストモダニスト啄木
短歌に興味があると知られたら、必ず「石川啄木好き?」と尋ねられた時期があった。 啄木が二十世紀で最も有名な歌人の一人だったことはまぎれもないけど、だからって短歌好きイコール啄木好きにされるのは、ロック愛好者は全員ビートルズ・ファンで、美術愛好家は皆ピカソ信者であると判断するのと同様、おかしい。それだけでずいぶん啄木に対し心証を悪くした。 啄木短歌のどこが優れているのかはよく解らない。あまりに平易で、蕪雑にもみえる。でも、あれほど読まれるからには何処か秀でた処があるはず。解らないから読む。「よごれたる手を洗ひし時の
/ かすかなる満足が / 今日の満足なりき」…。首を傾げる。啄木を絶賛している誰かのエッセイに移ろう。そしてもう一度目を通す。頭をかかえる。啄木自身のエッセイも読む。「詩はいわゆる詩であってはいけない」。うんざりする。 難しい。 そんなある日。当時「ポストモダニズム」という思想用語が一世を風靡していて、それを理解しようと思想書の類もよんだけど、さてそれが創作にどのような影響をもたらすのやら今一つだなと考えていたら、詩の雑誌にポストモダニズム詩の定義を見つけた。いわく、 (1) 特徴が無い。スタイルが存在しない。 (2) 詩への敵意を隠しもっている。 (3) いいかげん(のようにみえる)。 (4) わかりやすい(気がする)。 (5) 言葉はデジタルへ、もしくは「物語」へ。時にはクロスオーバー。 まだ他にもあったのですが引用はこれぐらいにして、その時の僕の読後感想を一言で申せば、 「なんだ、石川啄木じゃないか」 に尽きます。 もっとも啄木の場合、特徴がないことが独自にすぎて、彼の死以後スタイルがない短歌を詠めば、まずすべて啄木亜流にされてしまうことになったのですが。 それからしばらく一層丁寧に啄木を読みました。もっともこちらの趣味はあまり変わらなかったような気がする。 結局「ポストモダン短歌」や「ポストモダン俳句」という言葉は「ライトヴァース」に圧倒されて出てこなかったですね。ライトヴァースがポストモダンの役割を引き受けてしまったとも言えるでしょう。イコールではなくとも。 その後ポストモダンはあっけなく終わってしまった。 今ポストモダン文学を読むと、そのほとんどがなんか懐かしい。そしてちょっと恥ずかしい。マイケル・ジャクソンの「スリラー」を目にしてしまった時のように。マイケルじゃなく、マルケスの「百年の孤独」なんかは別ですが。 啄木短歌もあまり以前と印象は変わらない。相変わらず古臭い。今はその魅力の秘密にも迫れた。もう昔ほど嫌じゃない。 今ライトヴァースを読むと、…近年の恥知らずの多さにうんざりします。もちろん立派な歌を詠んでいる人もいらっしゃるのですが、スタイルが無く、詩への敵意を隠し持ち、いいかげんで、わかりやすく、デジタルな言葉で作られた短歌がちらほら見られるもので。そういう似て非なる低俗歌ほど啄木から遠いものはないでしょう。
<付記>この項、「あ・はるふ・まんすりー・こめんと 103」に(ちょっとだけ)続く。
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