あ・はるふ・まんすりー・こめんと 2001年10月22日

 
  イケイケの首相

 近頃の首相は、イケイケであります。これまで以上の熱弁であります。
 でも、それはテロ対策法案であります。構造改革はどうなったんでしょう。
 そして、それはとても奇妙な答弁です。アメリカの「自衛隊を出せなんて言ってない」という主張が事実なら、米軍の戦場近くへの自衛隊派遣は明らかに先走り過ぎだし、遠回しにせよ要請があったなら、けっして自主的に出したのではなく、渋々であり、あの国会答弁は全部カラ元気、ポーズなわけで、フラストレーションを溜め込んでるようなもの。もっとも、人間の行為なんてどれほど自発的・義務的の分別が明確にできるのやら、八割の義務的心情が実態だったとしても、二割の自発的心情に縋り、自発的行為だと自分に言い聞かすことだってできるんですよね。
 テレビで見る限り、顔色も悪く、体調が不安視されます。
 ところで。
 どれほど強弁しようと今回の事態は明らかに集団自衛権の行使でありますが、すると日米安保条約ってのは、日本をアメリカの傘下に入れることにより、参戦権を放棄させただけなんですね。
 まあ、良いです。現在この国には何処を攻める当てもないのだから。

 

 
  謎の芥川

 空爆以来、昭和初期の文章、またはそれを扱った文章を集中して読んでいたら、脇道に逸れて、芥川龍之介関連の物も幾つか読んでしまった。芥川の文章そのものは、ほとんど大正年間発表だから、一つも読まなかったけど。
 それで改めて思った、どうして芥川論と云うのはこれほど人によって主張が異なるのだろう。
 それぞれの作品論は誰にかかっても似たことを言っている。芥川の作品はほとんどが短編でテーマが明白だから、論じてもあまり他人と違うことも書けない。だから芥川の師・夏目漱石ほど論じられもしない。
 ところが、作家論になると調子はがらりと変わる。試みに、小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、柄谷行人と有名批評家の文章を読み比べても、驚くほど違う。ほとんど同じ人物を扱っているとは信じられない。これが漱石の場合だと、まったく触れようとしない小林秀雄を除けば、みんな枝葉末節では色々だけど、大筋において差は小さい。
 実は、芥川は漱石とはまるで資質の異なる文学者なので、そういう方向から見たらおもしろくもなんともないんじゃないかと思うのですが。
 でも、芥川的資質の持ち主ほど芥川については語りたくないのかもしれないね。

 

 
  ウォーホルを眺めつつ

 訪ねたら、知人がウォーホルの画集を持っていたので、開けてみた。六十年代、大衆向けの陳腐な物ばかり好んで扱い、横領されるばかりだったアートからの報復を企てたウォーホル。
 それで気付いたんだけど、去年引っ越してから全然美術展に行ってないな。
 画集を眺める。
 日本の作家がこの画家に注目し始めたのは、いつだろう。これを見てたらふと、「美しい星」で空飛ぶ円盤を、「午後の曳航」で水夫と女の港の別れを描いた三島由紀夫も、百貫デブや傴僂や侏儒を取り入れた劇団天井桟敷も、陳腐ばかり並べて、時代が同じなだけなのに、こんなにも似てしまう物なのかと、ため息が出る。
 だから、現代アートを鑑賞するのも善し悪しなんだな。それも楽しいと云えば楽しいんだけど。
 ようするに遠いんだよ、そういう催しが、ここからはね。ああ、横浜に行きたいよ。

 

 
  日記文学

 ホームページ開設以来ずっとこうして日記を書いている。僕としてはそれなりに佳い物であろうと願っているのだけど、どれほどのものか心もとないのが哀しい。
 昭和にも多くの日記が書かれたけど、名作と呼ばれている物は少ない。永井荷風「断腸亭日乗」くらいか。林芙美子「放浪記」は日記というより私小説だろうか。三島由紀夫「小説家の休暇」は批評集とされているのか、あまり評価を聞かない。「裸体と衣装」はつまらなかった。
 紀行文やルポルタージュなら幾つも思い浮かぶんだけどな。近頃の流行りは、自伝だし。
 むしろ文壇に生きた人でない、素人として発表された日記が印象に残っている。高野悦子「二十歳の原点」、奥浩平「青春の墓標」、廣津里香「死が美しいなんてだれがいった」…。
 これはそういう類にはなりそうもないな。
 ちぇっ。

 

 御意見、御感想がございましたら、お聞かせください。
 無断転載は禁じます。Copyright(C),Miyake Satoru,2001

Online Order

書店でなくても本は買える!
 

次回

前回

あ・はるふ・まんすりー・こめんと 一覧   三宅惺ホームページ