あ・はるふ・まんすりー・こめんと 2002年1月28日

 
  作り話「舞姫」

 森鴎外の「舞姫」は、私小説とする論文を読む。
 しばらくして今度は、この小説は鴎外の実体験だと学校で教わった、という書き込みをネット上で見かける。本当かどうか知らないけど、ありそうな話。
 芥川龍之介が小説の末尾に、この物語はなんたらという書を出典にしてうんぬんと書いたら、学者がその書をぜひ教えてほしいと言うので、そんな物はない、作り話だ、と答えたら、怒られたとか。まあ、そんな話、珍しくもないのかもしれないのだけど、だからこそ小説の読み方を教える必要もあるんだろうと思っていたら、そもそも授業でもまともには教えてないらしい。今更、学校に何を期待していたわけでもないけど、ひどいな。
 僕は「舞姫」が大好きです。読み返すほどに理解が深まっていくような、読書の至福を味わえます。十代の頃は雅文体が難しくてあまりわからず、なんとなく「うたかたの記」の方が好いな、と思ってたのですが。
 もちろん「舞姫」の主人公・太田豊太郎は鴎外その人ではなく、法学士・豊太郎は医学士・鴎外が関係するはずもない政治的体験をするのです。豊太郎はドイツで官職を解かれ、新聞社の通信員になった後、大臣の懇意を得る、波乱万丈の道を歩むのだけど、現実の鴎外は留学先で無事大過なく医学研究を終えている。豊太郎の住まいは、鴎外が帰国直前わずかのあいだ留まったベルリンでの三番目の下宿をモデルにしているらしいけど、豊太郎は仕事をクビにされた後、その住まいから物語のヒロインであるエリスの部屋に移り、同棲生活に入る。エリスが何処に住んでいたのかははっきり書いてない、でも、記述によれば教会のそばらしいからその教会のモデルを定説通りの建物としてそれを足場にだいたい見当をつけると、そこは鴎外が二番目に住んだ、事実上ベルリン生活のほとんどをそこで過ごした下宿のすぐそばで、あるいはエリスの住居は、鴎外が住んでいた部屋そのものかもしれず、するとエリスとの恋物語も全部鴎外の巧みなフィクションと解釈した方が納得がいく。ちなみに鴎外の下宿は、一番目が鴎外記念館となり、三番目が修理した上で残されているらしいのに、二番目は周辺一体すべて戦争で完膚なきまでに破壊されてしまったとか。聞き取りでも写真漁りでも良いから誰かが実物を再現してくれたら、作中の描写と比較もできるのだけれど。
 けど、豊太郎とエリスが出会うその教会にしても、モデルにさまざまな異説があるらしい。でも、それも鴎外の作り事で、本当はそこに教会など最初からなかったのだ、と言い出す人がいてもおもしろいのにな。小説だもの。
 小説に描かれてるような、現実のドイツ女性に金銭的援助をしたらしい形跡は何もなし。日本に鴎外を訪ねてきたヨーロッパ女性はいても、性的関係があったかどうかも謎。
 小説はしょせん作り話でしょう。

 

 
 「ヰタ・セクスアリス」ってなんて読む?

 鴎外には「ヰタ・セクスアリス」という小説があって、「舞姫」よりこちらの方が私小説に近いらしい。ちなみに「ヰタ・セクスアリス」発表は1909年、最初の私小説と言われる田山花袋「蒲団」はその二年前の1907年、そして「舞姫」は1890年。古い。
 もっとも、「ヰタ・セクスアリス」の主人公・金井湛は別の小説「魔睡」の傍役だから、これも鴎外その人ではないことは当然なのだけど。
 この「ヰタ・セクスアリス」は〈いた、せくしゃりす〉と読むと友だちに教わった。こちらが現代表記に馴れ過ぎてるのだろうけど、"VITA SEXUALIS"とアルファベットを見せられるまでカタカナではなんだか腑に落ちない。学校では〈いた、せくすありす〉で通っていた。けど、アルファベットを見たら〈ヴィタ〉と読みたくなるね。
 <性的生活>と訳す。
 どんな生活なのかと思ったら、いわゆる「性の芽覚め」で話は終わっていて、本格的な性生活についてはなんにも描かれていない。これで当時は発禁処分にされたのだから、百年前の表現規制にあきれるため読んだようなもの。それぞれのエピソードはおもしろかったし、文章はもちろんすばらしかったけど。


 

 
  少年レイプ

 さるにても理解されがたいのは、男の性。僕にもよくわからない。女にはなおさら解らない。
 しかし、そこまで男女差が大きいものでもないような気がするのだけど。
 昔の仏典等読んでいると、たとえば尼が犯されると、僧侶どもは「さぞかし好い思いをしたのだろう」と囁きあったとか。もちろん、釈迦がこの後に尼を慰める為の伏線ではあるにしても、実態はそんなものだったのだろう。物語にも、女子の憧れである貴公子が一人の女を犯すと、周囲の女の大変な嫉妬をかい、女が二重に傷付くシーンが描かれている。少女強姦が罪でない時代なんてそんなものなんだな。
 じゃあ少年強姦はどうなのか。
 たとえば、成熟した女が少年をむりやり犯す。少年はその後なんとなくその女の愛人になる。周囲にそれを話すと、同世代の友人からはむしろ羨ましがられる。本人もそんなものかと受け入れる。やがて、少年に恋人ができる。二人は愛しあっている。そこで当然性交渉の問題が発生するわけだけど、さてそこでまともな性交は成り立つのだろうか。
 あっさり成り立つと解釈したのが、映画「卒業」。ダスティン・ホフマン演じる主人公は、性になんの疑問も感じていない。そして不思議なことに、彼はあれほど愛のない性の快楽を味わいながら、本当の愛に目覚めると、それ以外に何も目に入らなくなり、愛と性を結びつけようとする。つまり愛する女性とのみ性交をしようとするわけ。めでたいことだ。でも、本当にそんなにうまくゆくの。欧米には愛と性を結び付ける長い伝統があるから、大丈夫なのだろうか。
 ただ、愛と性が結び付かなくても、大きな問題にはならない。恋愛結婚の果ての夫婦生活が充実する方向にはいかないとしても、破綻さえしなければ。
 でも、もし一度ある経験が愛と性を完全に切り離して解釈させたら、それを改めて結び付けるのは容易じゃないと思う。逆に、愛のない性というトラウマを通過した者が、愛ある者に性を挑まれたら、時に途惑うだけでは。特に自分がそれをトラウマと解釈していなければ。それじゃあ結果的に無事恋愛結婚に至ったとしても、その後の二人の性交は、愛とは何も関係がないことになりはしないかい。再度結び直さないと。
 強姦を体験した少女がその後やけをおこしたように性交を繰り返す。それを人は堕落と見る。
 では、強姦を体験した少年が女遊びに明け暮れた場合はどうなるのだろう。
 不思議なことに、今もこの社会には、年長の大人が或る年齢に達した少年に場慣れた年上の女性をあてがう風習がある。それが本人の為になっているのかどうか。女遊びに目覚めた者は感謝しているかもしれないな。
 なにしろ、この社会では少年レイプは犯罪ではないのだから。
 もちろん愛と性なんて何も関係ないと開き直っても一向に構わない。でも、もし愛と性をもっと強く結び付けようとする方向に世の中が向かえば、夫婦生活はより円満に、家族関係は緊密にで申し分ないと考えるのだけど、全然そういうふうには向かってないんだね、この国は。
 ま、根っからの娼婦がいるなら、根っからのプレイボーイも、どうしょうもない助平の女たらしだって、ゴロゴロいるんだろうけどさ。 

 

 
 だれか家に帰りたい?

 映画「卒業」を思い出したのは、その音楽を担当したサイモン&ガーファンクルのせいだ。先日、同居人のリクエストで彼等のリマスターCDをプレゼントしたので。もちろん、どちらも僕はリアルタイムじゃない。オリジナル・アルバムを通して聴いたのも始めて。
 叙情的な歌だった。
 サイモン&ガーファンクルといえば、先日そのヒット曲を素材にした「早く家に帰りたい」という詩集を読みました。
 かつてH氏賞も受賞された名のある詩人の本でしたけど、ここでは愛息の死という現実が痛ましすぎて、強く同情の念を起こさせるものの、詩としては言葉が死んでいた。悲しい。死が詩を殺してしまうなんて。
 死を詩が養分とすることもあるのに…。逆に言えば、切実な体験がひどい作品を産む要因にもなるということですよね。厳しい。

 

 
  王様

 懐かしのEURYTHMICS「SWEET DREAMS(ARE MADE OF THIS)」 がCMで使われています。(こちらはリアルタイムだ)。
 去年の秋から僕は、この曲のビデオクリップに出てくる王様が、田中麗奈が騎士をやってる金融企業のCMに出演中の王様に似ていないかと言ってるのですが、まだ誰からも賛同を得ていません。王様なんかみんな似たようなものだって。
 そうなんだろうか。
 同じ対象を参考にしてるから似るんでしょう。なんだろう。トランプカードかな。
 そういやロックシンガー「王様」にもちょっと似てたな。
 ステレオタイプか。

 

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