僕などが書ける立場じゃないですが、追悼
数年前、歌人の斉藤史さんが、最近の若手歌人の中に、わたしの短歌と、その下敷きとなっている現実上の素材を切り離して論じる人がいるが、これは好ましくない、と発言されたという記事を読んだ。
遠い春湖に沈みしみづからに祭りの笛を吹いて逢いにゆく わが頭蓋の罅を流るる水がありすでに湖底に寝ねて久しき
ある高名な思想家が、これらの歌を挙げ、一首の意味が現実世界の行為の意味と対比する必要を始めから放棄している、と批判したのを以前に読んでいたから、そういうことが引っ掛かっているのかな、とも思いました。 むしろ、斉藤史さんほど現実世界をストレートに素材にしていた歌人もいらっしゃらなかったわけだけど、これら一首だけではたしかにどんな現実をもとにしているのかはわからない。比較的にわかりやすいのを拾えば、次のような作でしょうか。
暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた 弾痕がつらぬきし一冊の絵本ありねむらむとしてしばしば開く 白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼(め)を開き居り
これなら、撃たれて殺された人がいるのだな、ということはわかる。それでも、この程度にしかわからない。どこかで理解への望みをなくした人が、ここにいる。 歌集を通読すれば、少しはわかる。二・二六事件と言われれば、ああ、そうか、と思う。父親が下獄して、友達が処刑されて、と続く。けど、思考はそこで止まる。 じつは二・二六事件以前の歌にも共通する精神があり、たとえば、最初に引用した「遠い春…」の歌も、事件の前年の作で、事件がより資質を拓かせたとしても、直接の原因とは思えないんだな。事件以後の歌が、より切実であるにしても、そこに断層は感じられないのです。 結局、作者は何に口を噤んで逝ったのでしょうか。でも、歌は「語れないことがある」と繰り返すだけ。未発表の何かがなければ、推測するほかない。
もっとも、先の批評文は、現実世界との関わりうんぬんよりも、韻律が意味をなしていない、という主旨なので、こうした歌も、おそらく例外ではないのでしょう。音楽としての韻律にこれほど忠実でありながら、思考システムとしての韻律からは他の追随を許さないほどの自由。だから読者として、とても心地良くなれる。見習いたいな。 ともあれ、現代では、韻律など何の意味もない短歌が氾濫しているので、むしろこうした歌がまぶしいくらい。おまえもその一人だ、と言われるかもしれませんが。 ははは。
わが残す歌の行(ゆ)く方(へ)も知らねども思ひ重ねてみ冬うつらふ
でも、こういう佳詠もあったのです。
僕は一度もお目にかからず終いでした。御冥福をお祈りします。
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