あ・はるふ・まんすりー・こめんと 2002年5月26日

 
  人目も草も

 インターネット検索でうろうろしていると、近頃おもいもよらぬところで自作の短歌を見かけます。文学とか詩歌とかと全然関係のない所。
 ネットですから、そのサイトの主催者でなければたいてい誰の記述かわからないので、ただぼんやりと、ああ、こんなところにも読者はいるんだ、という感慨に浸るだけなのですが。ときおり唐突にそこへ割り込んでいき、
 「その歌の作者です。何処でその歌を知りましたか。本屋で購入してくれたのですか。図書館で見かけましたか。人づてですか。それとも、このサイトの訪問者ですか。あなたどういう職業の方ですか。趣味は何です?」
 その他、さまざまな質問をぶつけたい衝動をぐっとこらえているんです、今も。ははは。
 こんなこと誰も考えないんでしょうか。僕はとても強く感じます。近頃、他人と触れ合う機会なんて、ほとんどこういう活字を通してのみだからでしょうか。いや、そりゃたまに口を利く人もいますけどもね。

  かき曇る中空にのみ降る雪は人目も草もかれがれにして

 和泉式部ならそういうところでしょうか。「枯(か)れ」と「離(か)れ」に引っ掛けて「かれがれ」、そう言われても、今ではぴんとこない表現ですが。でも、ちょっと季節外れかな。

 そういえば、先日のこと。
 小説を読んでいると、たいてい主人公にはさまざまな交際があります。常連客となっている店の主人。通っていた学校の古い付き合いがあり、そして、家族。ふとそれがとても新鮮に思えたのです。
 僕の場合、しばしば出かける喫茶店やレストランはあるけど、店員はアルバイトばかりだから、私語を交わしたことなどあるわけがない。いま住んでいる市内に学友や親戚が居るとは聞いたことがない。居るのに知らないかもしれないというのもなんだかなあ。
 ひょっとして。僕には、執筆者とその読者としての他に、人間関係を築けたことがほとんどないんじゃあないだろうか。
 卒業した学校の友達でさえ、現在なんらかの付き合いが続いている者は、ほとんどが僕に出会うより先に、まず僕の文章を読んでいました。そうでなかったわずかな例外も、付き合いが続くうちに読むようになる。最近、会うようになった者は、当然。もちろん、このサイトを読んでいる人は、100パーセントが該当する。
 そう考えると、とても不思議なことのような気がします。気がするだけかもしれないけど。
 こういうのは、特殊なのでしょうか。
 物故した作家なんかは当然そうなのだけど、それじゃあ自分は物故者と同じか。くだらない新作が量産されるだけの違いだったりして。
 おいおい。

 
  「回り」「周り」

 むかし「桜」という短編小説を発表したとき、数カ所、編集者に手を加えられました。それは全箇所いやだったけど、中でも一番困惑したのは、主人公の女子中学生が教師をはじめ目上の人間を語る場面に敬語が使われたことで、会話文ならともかく、地の文で内面を描いたシーンにどうしてそんな不自然なことをするのかと、内心激昂。それが掲載の条件だから従わざるをえなかったものの、もし何処かに再録できる日がきたら、すべて元に戻してやると心に誓っていました。
 先日、HPに載せたこの小説は、想い出せる限りもちろんもとの原稿通り。ああ、すっとした。
 古典文学の研究書など読んでいると、その記述を、作者、もしくは、写し改めた筆記者にだいたい限っているけど、現代ではいろいろ横から手が入り、こちらが想像もしていないことになったりします。編集者の中には、作品は作者と編集者の共作だと断言する方もいらっしゃいますしね。近頃のポピュラー・ミュージックは、作曲者とプロデューサーの共作だそうです。作曲とプロデュースを両方している人は、作曲者じゃなくプロデューサーであることを強調されてます。
 創作なんかしても、ろくなもんじゃないです、たいてい。

 ところで、「周囲」とか「周辺」を意味する言葉で「まわり」ってのがありますよね。僕はこの言葉を筆記するとき、以前は「回り」を愛用していたんですよ。なんとなく自分のぐるりを輪が連なっているイメージがして、「まわり」にふさわしいと好んでいたのですが、小説「桜」初出時は、これもほとんどこちらに無断で「周り」に統一されました。やれやれ。
 第一歌集「ころがる」では、本文にはまったく手が入らなかったので、誤植以外は原稿そのまま、もちろん「回り」と表記されました。当時は「周り」という表記そのものが気に入らなかったのです。
 しかし、それも自歌撰「ロール・アンド・クライ」に再録するとき、また「周り」にしようと提案されました。
 でも、この頃になると、僕の「回り」に対する印象もだいぶ変わってきて、「金回り」「酒の回り」「回り道」等、「廻り」には替えられても、「周り」にはならない言葉がずらり。「周り」って見栄えがあまり気に入らなかったけど、見慣れてくると、だんだん違和感うすれてきて。結局、「周り」に応じました。
 それで、今回「桜」再録ヴァージョンも、ここだけは直さず「周り」のままです。あまり既発表作をいじるのもなんだし。
 そんなこんなで、なんだか「まわり」という言葉に愛着が無くなったのか、「周囲」の意味では使わなくなってしまいました。使わなくても、別に困らないしな。
 やむをえなければ、いっそ、ひらがなにしようか。

 
  想い出すほど恥ずかしい

 某シンガーの新曲をたまたまインターネットのダウンロードのコーナーで聴いた。おいおい、これって某のあれとそっくりじゃないのと思ったが、はたして売れるのだろうか。できれば売れて欲しくはないな。本人はそんな作品知らないというのかもしれないが、周囲全員が知らないはずはないし、おそらく確信犯なんだろう。あるいは、気付かず作ってしまった後、スタッフに指摘されても、没にしてくれなかったら、もう引っ込みがつかなくなってるのかもしれないな。
 でも、偶然に似てしまうということはあります。実は僕にもうんざりする想い出が幾つかあるのだけど、ほとんどの場合、僕一人が覚えているだけで、誰も知らない。他人の目に一度も触れさせなければ、恥は自分が知るのみ。

 しかし、例外はあるんだな。

 学生の頃、歌集を出したくて、自分でワープロ打ちし、ホッチキスで留めた自装本を数冊作って、人に配った。それから間もなくして某有名歌人が出版した著書中の一首の下の句(五七五・七七の七七の部分)が、この自装本の一首にびっくりするほど似ていて、慌ててその初出時を調べてみたところ、ちょうどその自装本の発行時とその短歌が雑誌に載ったのが同時期だと判明。
 詠んだのは数年前だし、あるいは発表は僕の方が先かも知れないけど、人目に触れたのは向こうが先。がっかりしました。まだ配っていなかった残部には、その一首に抹消線を引いて渡したけど、却って目立ってしまい、手渡した全員にその理由を尋ねられることになりました。

 また、ある短歌雑誌の三十首詠新人賞に応募した時のこと。
 締め切りひと月前に僕は数年間に詠んだ歌の中から気に入ったのを選んで送った。やがて、その締め切り前後あたりから、ヒットチャートに食い込んできた曲を初めて耳にして、僕は呆然。その曲のサビの一節が、応募した一首のこれまた下の句にそっくりだったのです。
 おそらく、僕がその歌を詠んだ時、その歌はまだできていなかったでしょう。しかし、その歌がレコーディングされた時、その作詞者が僕の歌を知らなかったことも100パーセント間違いない。
 これだけでもうんざりする展開ですけど、さらに話は続きがあって、応募の半年後、その賞には見事落選したのですが、この雑誌は落選者の作品も一部だけ載せてくれました。ところが選りにもよって掲載された僕の作の巻頭は、まさに例のあの歌だったのです。全作載せないなら、もっとマシなのがあったろうと、編集者をなじりたかった。なにしろつい先日ヒットしたばかりの曲。とにかく会う人ごとにこの一件は話に取り上げられました。当然。
 逆恨みに近いけど、当時はその歌手の写真や映像を目にするだけで嫌になりました。もちろん、僕が嫌になるのは、自分自身であって、その歌手じゃない。その歌手の名や顔を目にする度に、自己嫌悪に陥るから、見たくないのですね。
 もしその曲のヒットがあと数カ月早かったら、僕のその歌は永遠に日の目を見なかったでしょうが、どうせ堂々全国誌に載せたものとの開き直りで、第一歌集に平然と鎮座してます。善かったのやら、悪かったのやら。

 発想が平凡なんだよと言われたら、かしこまるしかない。まあ、著書を出すようになってからは、さいわいそういうことはなくなりました。
 逆に、おまえ、それ、俺の真似だろ、と言いたくなるケースはあるけど、それはべつに恥ずかしくはないし、自己嫌悪にも陥らない。健全です。ふう。

 
  高見盛な夕暮れ

 先日の大相撲夏場所はつまらなかった。「相撲を見よう」とここに書いて、二年が経つ。その頃はおもしろかった。けど、去年、貴乃花の長期休場が始まって以来の「武蔵丸時代」に、すっかり辟易しております。
 べつに武蔵丸が悪いわけじゃない。一人横綱が毎場所のように優勝していくのがおもしろくないだけ。千代ノ富士が一人横綱の折もやっぱり優勝を続けて、「横綱の責任をはたした」などとマスコミは持ち上げていたけど、そんな優勝候補の一番手が毎回順当勝ちしていくレース、セ・リーグなら巨人、Jリーグなら磐田が首位独走で終わるみたいなもの。相撲秩序が維持されて喜ぶのは、大相撲協会だけで良い。本命はいるけど、対抗馬がいない。退屈です。客はたまには下克上の一つも見てみたいものですよね。
 本当は、新横綱こそ望まれるべきなのだろうけど、武双山は怪我が多いし、千代大海は好不調の波が激しいし、魁皇は肝腎な星を必ず落とすし、栃東はまだこれからだし、まして次の大関に期待するくらいなら、やっぱり貴乃花の復帰待ちしかないのでしょうか。しかし、来場所、出場できるの?
 そんな中で、かろうじて見どころがあったのは、旭鷲山と高見盛かな。
 旭鷲山は相変わらずのサーカス相撲が冴えていた。でも、やっぱり一番ユニークなのは、高見盛。本人はどういうつもりでやっているのか知らないけど、あの仕切り時のパフォーマンスは、何回見ても、口元が綻ぶ。たぶん本人は大真面目だから、なおさらおかしいんだろうな。あの芸は今が旬。賞味期限が切れるまでに、まだ見ていない人は、一度、目にすることを勧めます。仕切り前だから、休場さえしなければ、100パーセント見られるしね。


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