異国語詠歌
もともと夏も冬も得意じゃないのだけど、今年の夏は特に調子を崩し、休んでいることが多かった。ちょっとメランコリイがひどいだけなので、定職者なら長期欠勤やむなしというところだけど、幸いこちらはそういう身分とは無縁で、はたからは、一日数時間だけ動いて、あとはゴロゴロだらけているようにしか見えないだろう。最近は雇用情勢が厳しいから、快癒して出勤したら、もう職が解かれているのかもしれないな。大変だ。 ここ数回の本欄を読めばお判りのように、執筆だけはなんの支障もないので、こうして雑文を書き、歌句を捻り、時には好きな詞を訳しと、こちらの生活には何も問題がない。だから、調子が良ければ、大過なく暮らせるのだけど、困ったのが、どうしてか本を読んでもまったく頭に入らないことで、小説も詩歌句集も新しい物は一冊も読まないまま、二ヶ月。最初は昔読んだ物を、この機会に再読していたのが、それにも飽きて、ところが新聞・雑誌などはまったく問題なく頭に入るのだから、エッセイでもと軽いお笑い系から始めたら、いつのまにか馴染みの作品の評論等に興味が移り、その結果、万葉集の研究書を大量読破。 こんなに集中したことは学生時代にもない。災い転じて福をなす。いや、福かどうかは知らないけどさ。 話題になり始めた頃、数冊読んで、それっきりにしていた「万葉を古代朝鮮語で読む」をうたい文句にした類いのも、その批判本も、一息に二十冊ほど駆け抜けてみました。どうしてこんなに類似本があるのか知りませんが、煽った方も、批判した方も、ずいぶんひどいのがありました。ひどすぎて最初から笑いっぱなしだったのも。お笑い芸人のつまらない本よりも笑えるよ。 印象を素直に述べれば、このベストセラーに書かれていることは、99パーセント、デタラメかもしれないけれど、万葉集に古代朝鮮語はおそらく何処かに含まれているのでしょうね。万葉の時代にも外国との交渉はあったのだから、当然、言葉にも反映されていたのでしょう。なにしろ解読不詳箇所ならいっぱいあるのだし。 それにしても、他の書物には古代朝鮮語以外にも、北海道のアイヌ語、スリランカのタミール語、インド北部のレプチャ語、その他さまざまな説が紹介されていて、いろいろあるものだなあと感心するほかないです。みんな熱心だなあ。 でも、外国語が使われている歌は、万葉以後、幾らでもありますから、当時にもあると考えた方が無難じゃないでしょうか。
アノクタラ三藐三菩提の仏たち わが立つ杣に冥加あらせ給へ
伝教大師の作と伝わるこの歌の「三藐三菩提」と「冥加」の部分は、おそらく当時の意識としては、漢語なのでしょうね。仏典の言葉もまだ異国語としか感じられなかったのでしょう。日本語とすれば、この無茶苦茶な字余りが、それを物語っています。漢語とすれば、字余りでもなかったのかもしれません。
南方を戀ひておもへばイタリアのCampagnaの野に罌粟の花ちる 斎藤茂吉
茂吉といえばドイツ語と思ってほぼ間違いない中で、これは珍しいイタリア語。何処の国の言葉で詠まれているか、安心はできません。 ちなみに、ようやく僕も自分にまずまず納得ゆく形で異国語を使った歌をいくつか作れるようになりました。いろいろ詠んだ結果、どうやらコツのようなものを、少しは掴めた気がするので。巧くできていればいいけれど。ひどいのなら、誰だって作れるのだから。 そのうち、またこのサイトにも載せるつもりです。
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