人里(へんぼり)にて
電車を一時間ほど乗り継げば、温泉街に行ける、と誘われた。まさか、と思ったけど、とりあえず出発。なんと、本当に温泉が、ぽつりぽつりと山の川沿いに点在していた。旅館も、露天風呂もある。 東京都にもこんな所があるんだ。都内で温泉を初めて見つけた時も驚いたけど、それらは奥山に一ケ所ぽつりと湯場があるだけ。こんなに密集している土地があるとは思いもしなかった。 その途中で、人里という土地を通った。「ひとざと」と最初読んでいたのだけど、町の道の脇の看板に地図が描かれ、そこには「人(へん)里(ぼり)」と振り仮名が。「人」が「ヘン」だと言うのか? 「里」なら「り」と読める。「人」は「へんぼ」じゃないのかと首を捻っても、妙な読みであることに変わりはない。あるいは、「人(ヘン)」とは「人(ニン)」の訛りなのだろうか。 変な話だ。 その「人里」で懐かしい出会いがあった。
むかし僕が短い期間、関西の図書館にいた頃の話。馴染めず、すぐ辞めてしまったのだけど、カウンターに腰かけていると、様々な人が本を探しに来た。書庫に籠りたがる教授、スポーツ誌だけが目当ての学生、それならば、目の前を通り過ぎるだけなのだけど、こちらに本を探してくれるよう頼んで来る者もいる。中には、リクエストして、本が届く前にそのまま何処かへ消えてしまうものも。 そういう場合、たいてい僕が彼等の相手をし、誰かに書庫まで走ってもらったので、僕はちっとも実害を被らないけど、なんだか申し訳ない気もする。今度会ったら、一言なにか言ってやらなきゃ、と思っていた。
だから、「人里」での再会は、予想外の出来事だった。 そうは言っても、道で擦れ違う時、ちらっと木陰に横顔を見かけただけだし、なにより今になると、何をリクエストされたのだか、なにより、本当にリクエストされたのかも曖昧だし、正直、もうそんなことどうでもいい。こちらが何か勘違いしただけかもしれないし。 「また、往っちゃったんじゃないですかあ」 と大学の後輩が笑う。 「往っちゃった、って、なんだよ」 と返しても、何も答えない。ふん。 でも、それは構わない。見かけた時、おそらく僕は懐かしさに微笑んでいたことだろう。
人里の上流では、普通の民家が何件も温泉の看板を揚げている。東京の風呂屋を思えば、入浴料も安い。 ぜひ、この中の何処かに入りたいと思ったのだけど、あいにくその日は、連れがその集落の真ん中にある、温泉センターの格安券を手に入れていた。正規なら、そんな味も素っ気もない、コンクリートの箱物なんか見向きもしないところだけど、半額以下なら、さすがに民家よりずっと安い。 山頂で富士を見たあと、ゆったり湯に浸かった。 みそ味の饅頭も美味かった。 でも、なにより見事だったのは、人里(へんぼり)峠への下りで、木々の間から垣間見た、濃淡色様々な紅葉だった。
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