『おくのほそ道』関連書
暖かくなってきました。 すると、旅心が疼いてくる。でも、まだ寒の戻りが時折あるので、旅立ちはもう少し待とう。
今年に入り、松尾芭蕉の『おくのほそ道』に関する本や放送を何度か観ました。日本文学史上最高の紀行文と讃えられて、三百数十年。いまだ人気は衰えない。 すると、毎度のように語られる「どうして芭蕉は旅に出たのか」の疑問。 じつは、『おくのほそ道』本文冒頭に、ちゃんと答は書いてある。 「旅心を抑えきれず」 「歌枕(文学名所)を見たい」 これで話は済むはずなのに、相も変わらず「どうして芭蕉は旅に出たのか」の疑問が繰り替えされるのは、たったこれだけの理由ではるばる旅に出る人が要ると云うのが、どうしても信じられない人が大勢いるためでしょう。今と違って、遠出は月日もかかるし、費用はバカにならないし、生命の危険すらある時代ですから、解るような気もします。
しかし。 芭蕉が歩いた場所のほとんどは、西行等の歌に詠まれた作品所縁(ゆかり)の土地。その西行が旅に出たのも、平安時代の歌人・能因や藤原実方の和歌に詠まれた場所へ、直接、立ってみたいと云う念いが、大きな理由らしい。その能因や藤原実方の時代ですら、そこは歌枕という名所だったわけで、因果は何処までも巡ってゆく。 もっとも、能因は「自宅に引き蘢り、旅に出ず、出たふりをして、歌を詠んだ」と同時代に謗られ、今もそう信じる誹謗者が後を絶えず、藤原実方はべつに旅に出たかったわけではなく、時の天皇の怒りをかい、「歌枕を見てまいれ」という勅命に従っただけで、ようするに都を追放されたのだから、因果はいつも風流なわけじゃないです。 ともあれ、今も昔も、文学名所というのは、人が集まる所のようですね。 芭蕉より一世紀後、上田秋成は『おくのほそ道』の跡をたどりたいと考えた俳人が旅先の地元民に「この穀潰(ごくつぶ)し」といった調子で扱われるユーモア小説を書いてますけど、江戸時代にもそういう酔狂な輩が居て、それを嘲笑する庶民が居たわけです。芭蕉は生前あまり有名じゃなかったから、却って良かったようだけど、伝説によれば、西行なんかは庶民にバカにされながら旅をしていたようなもののようですね。歌と旅に浸りきった西行をからかった伝説を持つ土地が、あちこちにあります。家族も出世も放り出して、そういう生き方をする西行が、なんだか当時の人には薄気味悪かったのでしょう。 おっと。話が逸れすぎましたね。
現代でも、『おくのほそ道』の舞台を紹介するというだけの企画で出版される著書や雑誌は退けもきらない。だから、それだけを理由に現地へ出かけている人は、かなりの数でしょう。 現代は昔と比較にならないほど、国内の旅が、手軽で、安全なものになった事情もあります。当時は、今のインドシナ徒歩ぐらいの覚悟は必要だったでしょうね。能因の頃はもちろん、芭蕉の旅も、それなりにリスクはあったはず。明治でさえ、この国には道も通わない山奥の村があったそうですから。 まあ、緊張感の緩みきった「観光旅行」で、優れた紀行文ができるはずもないですよね。
ともあれ、だから僕は、『おくのほそ道』の旅も「芭蕉は歌枕を見たかった」で充分と思えるのです。他に理由があったとしても。 ああ、こんなこと書いてたら、なんだかますます旅に出たくなってきたよ。
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