ある愛の神話・完結編
十二月八日、今年もジョン・レノンの命日がやってきました。もっとも、今年は、あちこちで太平洋戦争開戦日としての取り上げ方が多かった気がするのは、御時世のせいか、気のせいか。 ともあれ、僕は、例年通り、一日、CDを聴いて過ごしました。ジョンが亡くなった日以来の恒例行事。ちなみに、僕が初めてジョンの曲をそれと聞いたのは、その数カ月前のことでした。
亡くなったニューヨークのダコタ・ハウス前や、その近くの公園、セントル・パーク内の小広場にある、「イマジン」と書かれたメモリアル・サークル上に、集まった人もいたに違いない。故人を偲ぶのは墓前に参列するのが普通だけど、ジョン・レノンの墓が何処にあるのか、誰も知らないからね。その小広場に遺灰を撒いたなんて噂まであるらしい。 ファンが大挙押し寄せるのを防ぐため、あえて公表されていないのだとも言われています。エルヴィス・プレスリーの墓は、屋敷の庭にあり、見るのも有料だとか、ドアーズのジム・モリスンの墓は、破損や落書きを恐れて、常時、警官が張り付いているらしいとか、有名人は死後も大変だ。 でも、もうひとつ説があって、そもそも墓はまだ建てられていないのだ、という人もいるのです。 レノン未亡人であるオノ・ヨーコさんの寝室でジョンの遺骨を目撃したとの証言も。時には、ダブルベッドの下に置いてあったと、まことしやかに語られたりもして。
同居人にそんな話をつらつらしたら、彼女いわく、 「自分が死んだら、混ぜ合わせるつもりかしら」 ひとつの骨壷の中で混ざり合う二組の骨。遺灰にしたら、まさに完璧。一人の灰と一人の灰が一緒になる。もはや分離不能。究極の愛のかたち。 「その後、埼玉のジョン・レノン博物館に埋めるのよ」
その話を聞いた途端、「美しい」とは感じずに、どうして悪寒が走ったのか。僕が僕であることに不安を感じたからでしょうか。一人が一人で無くなる不安。 死というものが、自分が自分であることの否定なのだとしたら、一個の骨壷も、一基の墓石も、個人の一つの抵抗だったりして。最後の死への抵抗。哀しいな。 すると、他人との完璧な結合への試みというのも、死に対してポジティブであろうとする、大胆不適な発想転換かもしれませんね。自然に帰ろうなどと云う処とは考え方が逆なのが、またとんでもないというか。 相手の骨を食べてしまう、という人もいるそうですが、それじゃあ後で下水に流されてしまうだけ、と思ってしまったのは、僕だけでしょうか。(しかも犯罪です)。それと比べれば、灰を混ぜる方が、完璧な結合と言えないこともないのかな。
もちろん、これは現実のオノさんに係わりのない妄想ですけど、ふと「ありうる」と思ってしまったのも事実です。ひとつの愛の神話の完結編として。絶対に離れられない二人。永遠に続く夢。 相手と一緒になることを望むことが愛で、それを讃えるつもりがあるなら、これはけっして否定できるものではありません。でも、何か違う。 あれこれ考えているうちに、ふと気付いたのは、もし先立ったのがオノさんの方で、ジョン・レノンが同じことを試みようとしていたら、どうだったろう、ということ。それでも、大多数の人は、あるいは顔を顰めるかもしれないけど、僕は、多少の留保を付けた上で、それでも感動してしまったかもしれない。 すると、結局、僕の不満は「故人の意志はどうなっているのだ」という一点に尽きるんじゃないか。 ようするに、これは二人の愛の結果ではなく、残された一人の自己満足にすぎないのでは。そして、逆にジョンがそれを実行に移す立場なら支持してしまいそうなのは、ジョンのわがままなら許してやりたいという、こちらのこれも一方的な思いにほかならないのかもしれません。勝手な奴。
すると、僕がそういう望みをいだかないのは、寂しい人生を歩んでいるからかもしれない。それとも、ある日とつぜん、 「この人と遺灰を混ぜたい」 などと思うのでしょうか。眼前に今そんな相手がいれば。 なんだか恐いな。
試しに、そもそもの発案者である彼女に尋ねてみたら、 「私は嫌だ、そんなの」 でした。ノーマルだ。 やっぱり、僕は一つの墓で安眠させてください。それが今の希望です。
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