あ・はる・まんすりー・こめんと 2008年3月25日

 
  散りぢりの桜

 今年も桜は早かった。三月二十三日に公園を散歩したら、もう満開のシダレザクラがあって、年々早くなってゆくようで、ちょっと恐い。
 この季節になると、思い出すのは釋迢空「卒業する人々に」の歌。

  櫻の花ちりぢりにしも           釋迢空
   わかれ行く 遠きひとり
   と 君もなりなむ

 初めて読んだ時はまだ高校生。「卒業式の季節に散る桜とは早咲きだったんだな」などと間抜けなことを考えていた。
 当時、桜といえば入学式の花。ソメイヨシノしか頭にない。その後、何もソメイヨシノである必要はないと気付いたものの、ではどの桜か見当もつかない。卒業が三月でも、別れるのが四月である可能性はあると、ようやく納得しかけた頃、そうではないことが判り始めた。

  櫻花咲きかも散ると見る迄に誰かもここに見えて散り行く  万葉集

  櫻花ちりぢりになるこのもとに名殘を惜しむ鶯のこゑ    山家集

 江戸時代には「櫻花かや散りぢりに」という唄が流行ったそうで、ようするに類想歌だったのだ。どんな種類の桜がいつ散ったのか、卒業する人々といつ別れたのか、問題にすべきではなかった。ちょっとがっかりした高校の春。
 でも、いつのまにか季節が進んで、今では入学式と新人歓迎会の頃にはもう桜がないということが珍しくない。卒業式の後にソメイヨシノが散る様を眺められるのは、そう遠い話ではないのかも。
 それを知ったら、釋迢空はどのような顔をするのだろうか。
 なんか恐い。

 
  葬儀の夢

 どうしてこんなに毎日毎日書くことだけを考えて生きているのだろうと、いつものようにまた自分に尋ねた。実際その他のことはすべて気晴らし。気晴らしだけが人生だという人もいるのだろうけど、あんまり同意できないな。
 そして今、それが解らないから書いているのではないかと云う、じつにあきれた答が頭に浮かんだ。正しいのかもしれないけど、納得はできないな。
 ふと、町中で包丁を振り回して留置所にでも押し込められたら書かないで済むのだろうかと一瞬思ったけど、それでは「なぜ包丁など振り回したか」を書きたくなるような気がする。
 何をしても、何を考えても、答は同じ。でも、その答がなかなか見つからない。そんなちっとも解けない問題が、記憶すら定かでない遠い昔に取り憑いてきたんだ。生まれる前に? ひょっとすると父母未生以前?
 まさかとは思いながら、腕組みをする。今夜は月がきれいだ。

 夢を見た。
 葬式会場で、どうやら故人は僕自身らしい。それを幽霊があちこち移動しながら眺めているようではなく、複数のカメラが場面場面を切り取りながら、まるで編集された映画のように、それを観ていた。
 会葬者には、詩人のA氏や小説家のB氏の顔があった。(もちろん実際に面識はない)。
 最後の別れのシーンになった。棺桶の端にある扉が開き、故人の顔だけを見せる。でも、僕にはその中が見えない。女性が子供を連れてきて、
 「ほら、おとうさんにお別れを言いなさい」
と、うながした。子供はしばらくその部分を見つめると、いきなりかん高い声で、
 「オトーサン、起ッキして!」
と叫んだ。歌人のCさんが目頭を押さえた。

 僕は、最初この夢を、自己愛にまみれた、まったく自分本意の甘ったれたものだと感じて、うんざりした。自分で自分が腹立たしい。ところが、幾日経っても、夢の場面ひとつひとつが、しっかり脳裏にこびり付いてしまっている。
 「夢を見た」
 そうして僕は、人に読ませるつもりもなく、何故かこの文章を書き始めた。
 すると、意外なことに僕は初めてこの夢で葬られようとしている人物が僕自身である証拠の何一つ無いことに気付いた。僕は遺体どころか遺影すら見ていないのだ。
 僕は観客としてあの夢を見ていたのではなく、あの夢に誰かの姿を借りて、俳優として出演していたのではないか。では、それは誰なのか。そして、あの「死者」はいったい誰なのだろう。

 

Copyright(C),Miyake Satoru,2008
 

 

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