ヤン・コハノフスキの子煩悩
『ポケットのなかの東欧文学』という本の冒頭に載っているヤン・コハノフスキの詩を読んでいたら、自分の子供を「綺麗好きで、聞き分けよく、規律正しく、甘えることもせず、教えられたかのように歌い、喋り、韻をあやつり、人の辞儀や仕草をよく倣い、上手に真似て、(略)、利発で、上品で、人が好く、むやみに泣かず、善意に満ち、おとなしく、つつましく」と、このような調子で後八行くらい続くのですがそれは飛ばして九行目「それもこれも生まれて三十か月もたたぬ、年端のそらわぬうちに始めたこと」と歌ってあって、二十九か月の子供を間近で見ている僕は、驚きました。それは凄い。いや、逆に三十か月だからできたのかも、もっと大きくなったら聞かん気の強い子供に育たないともかぎらない等と余計なことまで考えました。 ちなみに、この詩、十九篇から成る連作詩で、以前に刊行された『文学の贈物』に終篇の第十九だけが収録されていたものが、この本では第一から第十八まで載っている。さすがに第十九に匹敵するような詩はひとつもなかった。残念。でも、全篇を読めたから好いや。引用部分だけ読んだらまるで親バカだけど、全編を読めばむしろこれは子煩悩と呼ぶべきで、親としての子への情愛が染み出ていると受け取りましょう。
ところで、この子煩悩という言葉、父と祖父には使いますけど、女性には使いませんね。その代わり、親バカな女性はいらっしゃる。 親バカの父もいるけど、子煩悩で、しかも親バカの父となると、ほとんどバカ親かもしれない。恐い、コワイ。
特定の人物にとらわれないで、そういう言葉とか現象ばかり突き詰めいて思い煩っていると、〈この詩では亡き母が登場して主人公を励ますからビートルズの「レット・イット・ビー」みたいだ〉なんて、どうでも善い方向に頭が走ってしまう。 そして詩から離れて、現実に自分が親として子供に向かうと、自分の子供時代を追体験している気分になることがある。そして、中にはそれを懐かしく感じ、それを通して親への情愛を深める人があり、中には改めて過去の出来事に傷付き、苦しむことになる人がいるらしい。嫌だね。 僕にとっては不特定の存在である、あなたはこれをどう思う? 支持してくれたら、それは嬉しい。申し分ない。
ありきたりに言って、本を読むひとも、他人と会うことも、旅行へ出ることも、ただそれだけでは時間潰しになりこそすれ、僕個人の純粋な楽しみとはなりません。そこにはどうしても期待が混じります。これが自分に何を書かせるだろうという期待。 読み返してみると、本を開ける前ポーランドの大詩人にかけていた期待とこの結果を比べたら、我ながら微笑ましくもなります。 ほとんどバカですね。本当に。
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