山頭火の似合う空
天気予報は晴れでも、五月ともなれば少々の雲が空を覆ったり、時には夕立ちさえ降ることはあるものだ。そういう日に窓から曇り空を眺めて、詩集なり歌集なりを読む。それが日課だ。 もっとも、時には他の様々なジャンルの本に目を通したりもする。たとえば句集にも。
しみじみ生かされてゐることがほころび逢ふとき 種田山頭火
しみじみ味わうべき佳い句だ。 僕は気軽に「わたしは生かされているのです」などと口走る人を好かない。そういう人に「では、あなたを生かしているのは何ですか」と尋ねると、絶句したり、「そういうヤボなことは」と逃げてしまう。ヤボなことだからこそ、本当に自分が生かされていることが身に染みている人は、そんなことは気軽に口に出せないことだ。だから「あなたは生かされていると感じていますか」などと臆面もなく質問できる人は、そんな事まず感じていないか、自分が感じていることを相手と共有したいかのどちらかで、前者ならいいがかり好きのお節介屋、後者なら宗教の勧誘と見て間違いない。 学生の頃はそういう手合にたびたび会ったことを、電車の中で山頭火の句を読んでいたら、ふと思い出した。種田山頭火の句は全集を机の上にひろげるよりも、文庫本を電車やバスの中でぱらぱらめくるのが似合っている。山頭火句集の人気の秘密は、このあたりにあるのかもしれないな。 今から十数年ほど前、僕は或る人たちと大袈裟でなく「殺るか殺られるか」という精神状態ぎりぎりのところまで追いつめられたことがある。さいわいその時は向こうが白旗を揚げたので、こちらもすぐに矛を収めたから何事もなく済んだ。もっとも、その後もその人たちは再起を期すべく何度か事を起こそうとしたようだけど、表面上はともかく実態はその十数年前と比べればたいしたものではない。未来のことはともあれ、ね。 僕は自分の意思で「生きている」とも言える。あるいは、(広い意味で)詩人として、ライターとして評価してくれる人に僕は「生かされている」とも言える。心の持ちようでどちらともとれるから、時によって強く「生きている」と感じ、強く「生かされている」と思う。
僕の場合は文筆収入がゼロになったら生活はたちまち破綻し、あらゆる所に払うべき物が払えなくなるという状況はこれまでも不変であり、これからも不変であることはほぼ間違いないとして、問題は確率としてそのリスクが上がるか下がるかの差しかない。
われをしみじみ風が出てきて考えさせる 種田山頭火
でも、何をどのように考えたのか、僕が知りたいのはそこだ。だから書く。なかなか尽きることがなさそうだよ。これからも。 まあ、とりあえず次に山頭火の本を読む時は、電車の中にしよう。窓の空でも部屋の窓よりも電車の窓の方が山頭火には似合っている。きっと。
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