あ・はる・まんすりー・こめんと 2008年8月22日

 
  国と平和を愛することは

 オリンピック中継にテレビのチャンネルを合わせて、食事などしている。あるとき選手やコメンテーターが「日本のみなさんのために」「平和が一番」と繰り返しているのを漫然と聞いていて、ふと、この矛盾した言い回しが、自分にもけっして不快ではないことに気付いて、驚いた。
 「日本のために」というのは愛国主義"patriotism"に基づく、「平和が一番」というのは平和主義"pacifism"に基づく発想だろう。愛国主義は国家尊重の保守陣営側、平和主義は反戦運動の革新陣営側が広めた思想。前世紀後半は敵対関係にあったはず。それがあまりに広がり、根付き過ぎて、「国と平和を愛することは人として当たり前」みたいな思い込みが、いつのまにかできあがりつつある。結果としてオリンピックはその最大の広告塔なのかもしれない。
 僕自身、さほどそれに違和感をいだかないのだ。頭ではおかしいと解っていても。
 「主義」なんて嫌な言葉だ。だから"patriotism"は「愛国心」と翻訳されることがあるけど、それでは"pacifism"も「愛平和心」とでも訳さなければつり合いがとれないので、普通に「主義」で統一した方が善いのだろうな。
 きっと国も、平和も、それが「主義」であることを隠してもらいたがってるんだ。僕等もそれをついつい忘れる。でも、忘れても、やっぱりそれは「主義」なんだろうな。本当は。
 愛国主義が高まるのは、いつも国と国同士がなんらかの争いをしている時で、そもそも国と国同士が争うからこそ存在できるのが国であり、永遠の平和を望むなら国など無い方が良いに決まっている。国と平和、突き詰めれば相手を否定しあう存在だからこそ、仲良くそれが共存しあっている夢がここにある、ということだろうか。ともかく、どちらも切磋琢磨して、自分を拡大させているのは確からしい。
 それが本当なら、オリンピックもなかなか悪くないものなのだけどね。
 ジャマイカのボルト選手の横走りには驚いた。シンクロナイズドス・フリールーティーンのロシア・チームの演技に嘆声をあげ、ソフトボールの上野投手の粘りにうなり、何故かエースのダルビッシュ投手がなかなか登板しない野球の試合にがっかり。
 そんなことが四年に一度またかならず繰り返されるのだとすれば。
 ああ、野球とソフトボールは次の五輪ではやらないんだってね。早くて八年後。さすがにダルビッシュ・上野両投手とも八年後は難しいかな。

 
  喜久の湯にて

 どうして自分自身が今のような生活をしているのか、きちんと説明できる人がどれほどいるだろう。
 世の中には他人に向かって「わかった。あなたは<うんぬんかんぬん>という生活がしたいのね」などと、したり顔に言う人がいるけど、そういう本人はいったいどういう生活がしたくて今の生活があるのか理解していらっしゃるのだろうか。
 現実にやっている生活、将来に手繰り寄せようとしている生活、ただ夢見ている生活、それがぴったり一致している人の方が少数派だから、たとえば僕の今の生活を間近で見ている人達には、僕が何を望んで今のような生活しているか、正確に答えられないだろうし、たぶん興味もないのでは。もっとも、答えられると名乗りを挙げて、こちらの口をあんぐり開けさせてくれそうなタワゴトを滔々と語ってくれそうな顔が、今そろそろと頭を通り過ぎて行ったような気がしないでもない。おまえだ、おまえ。

 さて、そういうわけで、何を望んでそうなったかは自分でも今一つ解らないままに、夏だというのに、今日も「喜久の湯」という甲府の温泉に浸かりに出かけた。昭和の銭湯みたいな構えだけど、お湯は好い。奥のサウナから水、ぬるめの源泉掛け流し、熱い循環湯と、だんだん入口に戻るところが乙だ。
 最初の日うっかり石鹸等を忘れうろうろしていたら挙動不審を見咎められたのだろう、番台から白髪の女性が石鹸を持ってきてくれた。善い風呂だ。

 甲府駅に着いたら、まず先賢に敬意を表しようと、県立文学館行きのバス停を探す。
 駅南口からかなりの本数が出ていることが判って、安心していたら、五分間隔に続けて三台、僕がバス停に着いたら五分前にその三台目が去っていた。次は三十分後。そして表示時刻に十五分遅れたあげく、出口の外から質問する客には五分以上もかけて懇切丁寧に答える運転手と一緒に答えてやる乗客。変な時間に来てしまったのか、ここも日本であることに驚くべきなのか。
 文学館には、芥川龍之介の企画展飯田蛇笏を。作品のほとんどが山梨での創作である蛇笏はともかく、どうして芥川がと、パネルを読んだら、やはり僕同様、行きずりの旅行客にすぎない。その展示品に作家達に愛されたお湯として、ここの温泉が紹介されていた。入りがいがあるというもの。
 ちなみに、文学館の隣は美術館で、『詩とメルヘン』の表紙と挿し絵が並んでいた。夏休み、だな。

 これまで僕に「どうして『詩とメルヘン』に詩を投稿しないのか」と質問してきた人はいない。
 でも「どうして結社誌に短歌を載せないのか」と質問する人はいる。
 僕は詩と短歌を書いていて、ほかにも俳句などいろいろやっているので、そのうち『詩とメルヘン』がらみの質問もあるのかもしれない。あるいは『俳句研究』がらみの質問も。
 どちらにせよ、今の僕の作風をそのまま維持するなら、『詩とメルヘン』にも『ホトトギス』にも『塔』にも載らないだろう。向こうから作風を変えろと言われようと、言われまいと、作品の精神と魂は同じ表情を示しはしない。僕はできるかぎりそれをまっすぐに正視したいのだ。そして、どういう作品を書くかということが、僕にとって一番重要。別の発表形態を採るなら、作品も今とは違う物を書かねばなるまい。
 やなせたかし氏の童謡に似せた詩を、荻原裕幸氏の短歌に似てしまった歌を僕が今さら作って、何の意義があろう。誰も読みたくないだろうね。僕だって嫌だ。
 そんなことを承知の上で、わざわざそういうことを尋ねてくる、ひねくれた人もいるんだから、うんざりするよ。まったく。

 でも、きちんと生計は立てねばならない。文章で。
 太宰治ならば、流行はしたくない、けどもう少し売れてくれ、やりたいのは創作だけ、そもそも流行などするはずもない、原稿料もっと上げてくれ、こんなことでは日本の作家はダメになる、などと矛盾したことを平然と書けるのだろうけど、僕にできることといえば、この温泉に漬かって、創作に明け暮れる疲れを癒しながら、仕事が順調に片づいてゆくことを祈るぐらいのものか。

 お湯に浸かりながら、考えたこと。
 世の中には、他人の迷惑とか、幸福とか、そういうことにはまったく無頓着な人がいて、中にはそれを誇っている節(ふし)すらある人までいるので困る。また一方、ナイフを振りかざして突進してくる怪物が、後からあとから絶えず襲いかかってくるような人生を歩んでいる人に、「ぜったい相手を傷付けてはいけない」などと忠告する人だっている。殺すよりも殺される方が善いと悟っているわけではなく、常識とか慣習とか倫理に従っていれば、他人に迷惑がかからず、周囲の人たちが幸福でいられると信じている人が、これほど文明が進んでも、まだまだ多いのだ。僕だって常に自分の生き方に忠実であることと、他人に迷惑をできるかぎりかけないことを念頭に生活しているのだけど、今の常識とか慣習とか倫理などというものからどんどんズレていっているので、そういう方向性からしか物事を判断できない人とは、まるで話が合わない。
 僕等は社会とか世間とかにとらわれるあまり、たとえば宇宙の秩序などには耳を塞ぎがちになるけど、これではまったく本末転倒だ。人間が告げないことを、自然が突きつけても、目をそむければ異状なし、では困る。
 ならば、いっそのこと目を閉じれば善い。聞くべきものが、よりよく聞こえるようになるだろう。
 それでも、聞こえない人には聞こえないのだろうけど。

 だから、お湯にのぼせそうになったよ。くらくらする。

 

Copyright(C),Miyake Satoru,2008
 

 

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