あなたの体験、僕の経験
ある人のことをぼんやり思い出していた朝。 そして、彼女は僕とのことを覚えているだろうかと思った時、ふと橋本治氏の三島由紀夫論を思い出した。 刊行直後に読んだきりなので間違っているかもしれないけど、それによれば、三島は大学生のころ或る女性と幼いキスを一度交わして婚約寸前までいきながら結ばれずに、やがて二人とも別の異性と結婚生活を営んでいたのだが、四十歳を過ぎて、或る人が三島との仲をその女性に問うたところ「そのような仲ではなかった」と関係を否定されたと伝え聞き、それに著しいショックを受けた三島は自決への道を突き進んでいった、という説だったと記憶している。 その女性が本当にそんな空とぼけた発言をしたのか、本当にそれが自衛隊基地で三島の首を斬り落とす直接の原因になったのか、今の僕にそれを究明するつもりはない。ただそれを事実と仮定して、三島の受けた衝撃が急に五蘊を奔っただけ。 たとえば、もし彼女に、二人のいきさつや、過ごした日々を目の前で否定されたら、僕はどうなるだろう。 「そんなことあったっけ」 などと。 その場で彼女を殺すだろうか。それとも自分が高層ビルから飛び降りるだろうか。あるいは、その両方かもしれない。でも、割腹はしない。 そういう意味で、いきなり橋本氏の三島論に共感してしまった。仮定にいうフィクションに。 彼女との再会がいきなり恐くなった。 予定はまったくないけどね。
人は自分の過去を「忘れた」とか「記憶にない」とか簡単に済ませてしまいがちで、業績を勝手にでっちあげることすらあるし、時には他人の行為を盗みまでするけど、それは一人の他人を抹殺さえしかねないことなのだということを自覚しないでやっているのだとしたら、あまりに無知だ。
それは個人的経験ばかりではなく、歴史的事項にまで当て嵌まる。個人史の積み重ねこそが歴史なのだから、歴史の変更は常に一個人である誰かの経験を否定することにほかならないのだ。 沖縄戦や南京虐殺などの国にとっての負の歴史は、否定したがる人を絶えまなく生み続ける。それはその被害者の体験、時には存在そのものを抹殺・消去につながるのだ。 負の歴史ばかりではない。人間には、聖人を尊びたいという思いと同時に、聖人のような存在を煙たがり、そういう存在を否定しようとする思いがあるらしい。 昔から「聖徳太子は実在しなかった」という説は、繰り返しくりかえし唱えられては消えていった。本名・厩戸皇子なる人物の実在と太子が成し遂げたとされる業績を完全にフィクションとするための説得力ある論旨が展開できなかったから。すると、近頃は太子の成し遂げたとされる業績は、返答は厩戸皇子ではなく蘇我馬子の業績だったという説まで現われた。ただこれでは、歴史を書き換えることはできても、聖徳太子と呼ばれるべき人物は厩戸皇子ではなく蘇我馬子だったということになるだけで、おもしろくもなんなともない。
忘れられることと忘れられないことがある。 一般にマザーファッカーの物語では、「父」の不在が母と子の近親相姦に至ると設定されているけど、実際は「父」が居なくても「代理の「父」」とか「一過性の「父」」が現われることが多い。そこで母と子の相姦があるとすれば、それは「父」が居ないからではなく、「父」が命じるからという場合がほとんどではないだろうか。「事故」もしくは「純愛」という例外の可能性を否定するわけではないけれど。 その命令を最初に忘れるのは、いつも「父」だ。母はなかなか忘れない。そして子はけっして忘れられないだろう。表面的には忘れても、意識下では残らないはずがない。 「忘れた」では済まないのだ。 僕ひとりのことではない。誰にでもそういう過去はあるはずだ。あなたにも。
僕はここにいる。固有の体験、忘れられらない記憶、さまざまな過去の行為と思いをかかえて。 負けない。
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