赤十字病院にて誕生。
 母は「五輪開会式の切符があったのに、おまえが腹に居たから行けなかった」と度々こぼす。
 走って、唄って、ゲームをして、絵を描いて、おもちゃを振り回して、忙しい日々だった。
 クラシック・レコードを一人で結構聴いた。今は擦り切れ、ほとんど音が鳴らない。
 童話ではアンデルセンがイソップやグリムより趣味に合う。

幼稚園入園。
 「いじめ」というものの存在は知ったが、そんな言葉はまだなかった。

小学校入学。
 成績はまずまずだったが、学校は大嫌い。塾はどちらでもなかった。
 教師には溺愛されるか無茶苦茶に嫌われるかのどちらかで、むろん溺愛の方が少ない。
 義務教育を終えるまで、それは続く。よいことなのか、どうなのか。
 授業が終わると、まっすぐ自室に戻り、閉じ籠る毎日。
 引き続き、洋の東西を問わず童話をずいぶん読んだ。漫画を濫読、今も。
 テレビをたっぷり見た。ヒーロー物、メロドラマ、歌番組も
 作文はたいてい白紙提出なのに、物語を書くのは大好き。運動も嫌いではなかった。
 短歌や俳句を、指折り数え、創っていた記憶がある。

中学校入学。
 教室は〈いじめ〉と〈校内暴力〉の場。毎日がうんざりだった。
 成績は得手と苦手の差が既に歴然。特にひどかったのが、体育と技術家庭と英語。
 テレビはスポーツ中継以外ほとんど見なくなり、三学年からはもっぱらラジオ。 
 コミックと文庫本とレコードをわずかな小遣いで次々購入。
 もう物語は書かなかったが、ノートに俳句や短歌を書き留め始める。
 当時は、奇を衒わない、オーソドックスな歌句そのもの。
 運動はすっかり苦手となったのに、歩くのは好きだった。

高校入学。
 遅刻はやりたいほうだいで、嫌な授業をさぼり、図書室で読書。
 試験では、授業を知らないから学問上の諸説並べ立て、バツを貰い平然としていた。
 たしなめられたのは、一度、飲めもしないのに飲酒で校長室に呼ばれた時ぐらいか。今も飲めない。
 趣味は「登山、音楽鑑賞、読書」と答えていた。暇があれば、ギターを弾いていたような。
 詩詞歌句を毎日ノートに書き、
 字余りのない、調べの整った本格的口語短歌に挑戦しては、失敗を繰り返していた。
 「詩人」として、文筆家として身を立てる決意をしっかりかためる。

龍谷大学入学。
 講議には出席せず、図書館と喫茶店と誰かの下宿と旅と文芸創作発表にかかりきり。
 当然、成績はひどいし、卒業も四年ではできなかった。
 アルバイトをしても、すぐクビになるので、ずいぶん人に奢ってもらう。
 在学中の創作でもっとも好評を拍したのは百枚ほどの短編小説。
 友人たちはいずれ小説家をめざすのだろうと思っていたようだ。

歌集『霧のなか』など。
 「口語ベースの短歌を初めて創出する」という方針をはっきりと立てた。
 卒業前後、詩集と歌集と句集を編集する。詩集『雪が降る日に』を自筆本として出す。
 口語を大幅に取り入れた文語短歌が世の評判になっており、出版への意欲をつのらせる。
 ワープロで自装版歌集『霧のなか』製本。約四百首ほとんど口語歌。
 歌人名簿にも掲載されるようになった。卒業後、エッセイ「口語短歌の宣言」発表。

図書館情報大学編入入学。
 勉学と研究に忙しかったけれど、遊べるだけ遊んだ。
 卒論は「「言」と「事」ー折口信夫「言語情調論」を中心にー」。
 在学中、歌集草稿『夢の人』をまとめる。約三百五十首。
 短歌雑誌に投稿はしていたが、行分けにした歌が一行で載ったり、あまり善い関係は築けず。
 短歌は文語という偏見がまだ強すぎた。

詩専業生活へ
 バブル景気で人手不足。同窓生達は内申書を送るだけで内定をもらえた時代。
 にもかかわらず、なんとかやっと内定ひとつ滑り込めた。それでも「奇蹟」と言われる。ふん。
 既製にとらわれない、新たな俳句への模索を深める。そろそろ実作が、少しは実になってきた。
 三月の研修段階で早くも嫌になる。職場は監視役(上司)もいないので、学級活動じみていた。
 退職後、企業就職を勧められたのは某社社長から投げやりに言われた一度だけ。
 もちろん「わが社では採用しないけど」というのが言外にある。なくても、そんなの御免だが。
 以後、執筆に専念し、自由業者として就労。

歌集『ころがる』出版。
 収録詠すべて口語短歌で占めた。以後の歌集でも、この方針は貫く。
 自費で出版したが、販売契約が結ばれなかったので、書店には並ばず。
 反響に期待したが、出版後まもなくマスコミ各紙誌から歌壇時評欄がいっせいに消える。
 事情は知らない。たいてい数カ月後には元に戻ったのも不思議。
 だから直接賛辞を伝えてくれた人達の言葉が総て。ありがたいのも多かったがそれは著名人ばかり。
 歌壇からは社交辞令が大半。でも、十名ほどの例外もあった。
 そのかわり、短歌雑誌には刊行前後から模倣歌らしきものがあふれかえり、
 影響を受けるのは無意識なこともあるし勝手だが、礼状のひとつぐらいと思ったものだ。
 ともあれ結果として、口語短歌の文体の見本のひとつを提出したことにはなった。
 そして、以後、この模倣歌のたぐい、数かぎりなく読まされることとなる。

歌集『Cry』出版。
 あまり良い思い出がない。たとえば、「愛読者」と称するストーカーに付きまとわれたり。
 支持の言葉はしばしば熱狂的で、個人により好悪の差が激しい本のようだ。
 前著と大きく文体を転じたせいかもしれない。
 歌壇関係者からは著書寄贈の礼状すらほとんどこなかった。
 帯文のために一面識もない荻原裕幸氏から推薦文をいただいたことには感謝している。

自歌撰『ロール・アンド・クライ』出版。
 
「霧のなか」「夢の人」「ころがる」「Cry」、四冊からの抜粋を刊行。
 この頃、歌物語「ジングルベルはもうきこえない 〜うたにひかれて〜」を脱稿。
 しだいに文筆生活が板に付きはじめてきた。

ホームページを始める。
 当初「惺の頁-A HALF MONTHLY CONTACTS-」というサイト名でスタート。
 それからのことは、このHPで詳述。

歌集『月のむこうがわ』出版。
 
他人への著書寄贈をやめる。読みたい人だけが読んでください。ただし、買ってほしい。
 出版関係者は、僕の本を出してる社も含めて、皆そうして生きているのだから。
 なにより、僕の場合、頼れるのは読者の支持だけですからね。Fight!
 同時期、歌物語「鳥が飛ばなきゃならないように 〜うたにひかれて2〜」を発表。
 韻文詩への挑戦を始める。
 そして、サイト名を「惺式文歌邸-遮断機を飛び越えてゆけ-」に改題。

1999年12月初稿。以後、誤記訂正ならびに改稿、しばしば。

 

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