あ・はるふ・まんすりー・こめんと 1999年12月9日

 
  ちょっとガッカリ

 年末恒例、月刊誌『短歌研究』の「短歌年鑑」が発行されました。
 そして恒例の掲載歌ですが、僕のは新刊歌集の巻末がそのまま並んでいて、「毎年まあ丁寧に目を通してくれているものだ、今年はどれだろ」と期待していたので、少々はぐらかされた気分。もちろん編集者はこの数首が一番佳いと判断されたのかもしれませんが、これまでの選のように何かをそこから感じ取ることがまったくできなかったのです。それと、以前は行分け部分を表記されていたのに、それも無しで、とても残念でした。
 ああいうのも結構気にする方で、これまでもどの歌が掲載されたかなんてのは全部チェックしなくても覚えてしまうくらい気を回します。でも、参考にするのは、他の人の意見も同様だから、どれに耳を傾けるかは結局自分次第。習っているのでも教わっているのでもないのだし。
 しかし、あの選歌をするため一体どれほどの数を読んでいるのか想像するだけで目がくらむよ。僕なら辞表を出すか、気が狂うかのどちらかに違いない。昔勤めた所もそうなって辞めたんだから、どこでも結果は同じだろうけれどね。
 ところで、前回書いた辰己泰子さんは「所属無し」になってました。脱会されたんでしょうね。

 

 
  さて

 オーデンというイギリス生まれの詩人が、詩人の位置について「公的」「秘儀的」「私的」という語を使って説明しましたが、近頃それを思い出すことが、しばしばあります。
 今回の短歌年鑑でも思いました。他にもあります。

 

 
  
公的について

 たとえば、先日某組織幹部が、(今「かんぶ」を「患部」と変換しました、皮肉だ)、身内の不祥事を隠蔽していた件で頭を下げているテレビを眺めていた時のこと。
 公的なのか私的なのか人は判断しながら生きているのだけれど、世の中はもう少し複雑にできていて、公的にしても社会的と共同体的では違う。でも、官僚やら企業トップが逮捕されたあとのコメントを読むと、この人達は自分達の行為が共同体的には正しくても社会的には間違っているということがよくわかっていないのか、あるいは、わかっていても社会的視点を捨てて共同体に尽くすのが公的真理だと信じているのじゃないかと思えてくるのですよ。共同体的イコール公的で、社会的発想が恐ろしく欠落しているんじゃないかと。まるで昔の滅私奉公のように。滅私奉公は〈公〉が分裂しておらず、共同体イコール社会がかりそめにせよ前提にされないと成立しないはずなんですよね。
 これは文部省の責任でもあると思いますが。僕の記憶をたどっても、学校教育現場では全体がひとつの共同体であるかのような状況が善で、それに反する者は悪だという村八分的思考を広めているように感じましたね。共同体と社会の対立を充分教えていない。共同体は往々にして反社会的です。前時代の理想精神をいまだに美風として引きずっているところが公務員にもあるんじゃないかな。
 公的を重んじ私的を軽んじているつもりで、実体は共同体的になっているんですね。
 ちなみに、国家内部がひとつの共同体のようになったのが全体主義(ファシズム)社会で、このあたりに全体主義が好戦的段階に突入する秘密があるように思えます。
 もちろんこういう人たちは詩歌を心底好めるはずないでしょう。なぜなら、オーデンによれば、現代では〈詩〉は私的な場所にしか存在できないからです。斎藤茂吉の戦時詠は、そのありがたくない実例だなあ。

 

 
  
ところで

 今年僕はこの場でずいぶん社会時事その他について語ってきました、我ながら似合わないことやってるなあと自分を笑いながら。
 
率直に言うと、僕はまだアルバイトひとつまともにこなしたことがありません。マクドナルドもコンビニも経験はしましたが、一月持たずクビになるので、結果として只働き。親にも愛想つかされているから、いつも金欠。文章書くほか何もしてないから、社会性はまるでゼロと判定せざるをえないでしょう。
 だからこんな話題は苦手だし、領分から懸け離れているといってもいい。芸術について考えている方が、僕も楽しい。
 でも、パソコンに向かうとこうなっちゃうのです。今はそういう時代なのだとしか考えられません。

 

 
  
社会詠は何処へいった

 芸術は生きた時代の影響を逃れられないもの、とは言いふるされたことです。
 短歌も例外ではなく、唯美的傾向の強い塚本邦雄氏は五十年代後半に社会性の強い『日本人霊歌』を世に問い、大学紛争をテーマに登場した福島泰樹氏は、逆に後『中也断章』へ。「歴史の呪縛から解放されるために」と記した寺山修司は、しかしながらもっとも鋭く時代性をともなう作品を残してゆきました。
 かつて文学が政治や社会と離れざるをえなかった時代があり、僕はもっぱらそういうのを愛読愛唱してきた世代です。
 しかし。時代は変わりました。特に、八十年代半ばから昭和の終りにかけて。
 なのに、まもなく二十世紀も終わろうというのに、 短歌界にはちっともその兆しがありません。べつにWTOやら北朝鮮やらライフスペースやら自自公連立政権をテーマになどと主張しているのではないのです。それでは却って社会的にならず共同体的に陥りかねない。
 僕は僕なりにこの世界を歌おうとしてきました。これからも自分のやりかたを貫くつもりです。

 

 
  
エリア・プラス

 つい先日、エリア・プラスというNTTサービスを解約したのですが、契約以来、なにかに似ている名称だ、どこで聞いたのだろう、と考えていたのですが、たった今突然気付きました。
 シルヴィア・プラス。
 ばかですね。
 オーデン同様、イギリスと合衆国を往ったり来たりしていた詩人なので、想い出せたのか。
 関係ないけど、マドンナの"Oh Father"を聞くと、S・プラスの"Daddy"が頭に浮かびます。もう古いか…。

 

 
  全快後

 一ケ月以上も寝て過ごし、直ってみたら、驚いた。
 なんなんだ、この暖冬は。
 もはや十二月だというのに、セーターもコートも不要。妙だ。やっぱりおかしいよ、最近。
 でも、奈良はやっぱり寒いな。
 「社会性」という題で茨木のり子詩集『倚りかからず』について書くつもりだったのに、妙なことになっちゃった。

 

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