まんすりー・こめんと  2009年2月

 
  本物の王


 遅まきながら、漫画「DEATH NOTE」を読んでみた。これまで読もうと思いながら、機会がなく、ふと暇つぶしに入った珈琲店に全巻積み上がっているので、手に取ったら、セリフが多くて、ずいぶん時間を掛けた。
 死神から名前を書くだけで人を殺せる帳面を渡された青年が、より善い社会を作り上げるために殺人を繰り返すストーリー。この作にはさまざまな批判があるのだろう。僕の個人的見解を述べれば、この主人公のどこが一番まちがっているかというと、彼は社会を改めようという意思を持っているのに、最後まで表に立ってその責任を自分自身で引き受けようとしていないように見える。彼は「神になる」と作中で何度も繰り返す。でも、虐殺の果てで存命の人間にできることは、せいぜい「王になる」ぐらい。だから死後、彼は神になる。社会への直接的な影響力を失った上で。
 「王にして神」になろうとしたら、彼の人生はどうなったのだろう。
 もっとも、今の世の中に「本物の王」など「本物の神」と同様、滅多に現われるものではない。たとえば、今の天皇は、ちっとも「王」ではない。天皇に王権があった時代なんて、いつの事になるのやら。

 
  身も心も無いものと


 俳人・松尾芭蕉に関する本を読んでいたら、森川許六編集の書『風俗文選』に「西行上人ノ像讚」という芭蕉の作が掲載されていて、これは西行の和歌に芭蕉が十四文字を書き加えたものだ、と書いてあった。
 全文を引くと、

  すてはてて
  身はなきものと
  おもえども
  雪のふる日は
  さふくこそあれ
  花のふる日は
  うかれこそあれ

 「花の」うんぬん以降が芭蕉の作ということらしい。芭蕉から「許六」という俳号を与えられるほど、直(じか)に接した人のお墨付き。疑えない。
 これは埼玉県幸手にて西行が詠んだ歌だそうだ。幸手には今、西行の祖先である「俵藤太」藤原秀郷に討たれた平将門の首塚があるけど、東京都千代田区大手町の首塚ほど知られていない。あちこちに在る将門首塚のひとつということ。
 わざわざこんなことを書いているのは、これまで僕が読んできた西行全集を含む西行関連書の何処にもこの歌は載っていなかったから。芭蕉が生きた江戸時代には、西行没後ほぼ半世紀後に生をうけた一遍上人の詠として、

  すてはてて 身はなきものと 思ひしに さむさきぬれば 風ぞ身にしむ

という歌も知られていた。似ている。芭蕉は伝・一遍の歌の方は知らなかったのだろうか。
 どちらも歌としてはつまらない。おもしろいのは、芭蕉の書き加えた処だけかな。
 体を無い物と思っても、雪が降れば寒いし、寒くなれば風が身に染むという逸話は、哲学的ユーモア小説の題材にでもすれば笑えるかも。和歌というよりも、俳諧歌か狂歌だ。
 すべて眉唾物だと思っておこう。
 でも、表現が稚拙で、思考が浅薄とはいえ、古人がこのような苦悩をかかえて生きていたことだけは信じられる。おそらく芭蕉も。
 現代人は僧侶ですらも「身はなきもの」とは思えず過ごしているから、なおさらつまらない歌と感じるのかもしれないな。むしろ、何処かの組織の頂点に立ち、日常に贅を尽くし、グルメに舌鼓を打ち、美女とたっぷり戯れている人の中にこそ「身はなきもの」と考えている人がいるのかも。空気を無き物と感じて生きるように。どちらにせよ、つまらない。もうちょっと楽しくならないものか。
 もっとも、西行は身よりも心をこそ「なきもの」と考えていたはずなのだけどね。

  こころなき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮  西行
  おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋のはつ風

 「こころなき」の歌は『山家集』に載っているのに、「おしなべて」の歌は載っていないので、これを『山家集』成立後に詠まれた作と独断すれば、西行は「こころなき身」が「あはれ」を知る不思議に直面した後、何かがそこに「心を作る」と考えるようになったと受け取れるから、心を捨てた身が「あはれ」を知るとすれば、それは心ができたからだと思っていたろう。
 しかし、実際のところ、それは身体にぴったり寄り添った精神のなせるわざではなかろうか、などと二十一世紀の歌人の末裔は首をひねるのでした。どうにも思考が止まらなくて。
 愚かだね。

 

 
  「ありがと、ラビット」

 
 うちの子供は一歳の頃いきなり椅子から立ち上がってひっくり返ったりしていたので、腰回りをベルトで固定する習慣を三歳になった今でも維持して、食事前、自分からベルトを要求している。
 ある日の昼食後、そのベルトを外したら、
 「ありがと、ラビット」
と言った。「くまのプーさん」のセリフだ。幼児、口真似もまた楽し、か。
 近頃あちこちで目にする詩歌作品は、どれもこれも自分の言葉を持っていない、誰かの口真似みたいな作ばかり。もっとも作者本人ですらそれが借り物であることに無自覚ではと疑われる。
 けれども、借り物はしょせん借り物、そういう結果しか生まない。
 中には大真面目に「それが偉い」とでも勘違いしているような作もある。人格は大人でも、創造力は幼児に毛が生えた程度ということか。一般の読者が詩歌を捨てて、小説やエッセイに流れるはずだよ。それでも、無自覚な人達よりは、はるかにマシなのだろうけど。

 

 

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