まんすりー・こめんと  2009年3月

 
  監視されてる

 世の中に無用な者との自覚があってこその詩人と、頭では解っていても、これまで実際は、詩人として世の中の有用な存在であるかのような気分でいることが多かった。最近、ようやくそのまちがいが身に染みてきたものの、卑屈になりすぎて逆に相手を怒らせるのもばかばかしい、まあ、気に掛けないのが一番と、惰眠をむさぼっていた午後のこと。
 喫茶店でコーヒーを飲みながら、読書をしていた。ふと視線を上げると、目の前に監視カメラが。

 珍しいことではない。現代では、誰かが誰かを必ず見張っている監視社会だから、みんな多かれ少なかれ神経衰弱になって、頓着していないのは、見られるのが大好きな芸能&芸術&スポーツ等の関係者か、見られていることを気付かない精神薄弱者、うんぬんと考えたところで、それはつまり正気に遠い人間が正気ということかと、自分で混ぜ返して、吹き出した。
 それにしても、少しだけ狂気に近付いてる人がいて、最も狂気に陥っている人がいるのと同様、最も正気である人だって世の中にはいるはずなのだけど、周りを見渡してもそういう人にはなかなか出会えない。ひょっとすると、多くの正気な人には最も正気な人が「自分達と同じではないから狂人」と見えているのかも。それなら気付かないはずだ。あるいは、自分こそが一番正気だから気付かないのだろうか。
 どちらにせよ、残念ながら、僕はその人にまだ会えてないよ。それとも、会っているのかな。

 
  それから


 僕が尊敬する物書きは、自分の知らないことを好んで書きたがる人だ。
 世の中には、物書きとは一般人が知らないことをたくさん知っている人で、知っていることがたくさんあるからたくさんのことが書けると思っている人がいる。でも、他人が知らないことなど誰もが多かれ少なかれ持っていて、それを書けば良いのなら総ての人が文筆家になれる可能性があるはずだ。そうして、本当に多くの人が多くの文章を書いている。
 でも、僕には自分が知っていることなどたいしたものではないのが判っているし、たいていの人がそうだ。そういうたいしたものではないことにこだわる意欲も、必要も感じない。
 僕が興味があるのは自分が知らないことで、だから書きたいことも自分が知らないことだ。そして、周囲の本を読めば、やっぱりこの執筆者達も自分が知らないことにこそ興味を持ち、書いていることに気付く。少なくとも、その人達の方がたくさん書けるだろう。ひとりの人間が知っていることよりも知らないことの方が圧倒的に多いのだから、知っていることしか書かない人はすぐにネタが尽きてしまうからね。
 中には、絶えず知識を吸収し続けているから、永遠にネタが尽きない博覧強記の人もいるみたいだけど、あそこまでゆくと、興味があるから知らないことに近付いているというよりも、知らないことに近付くことそのものに興味があるとしか思えない。そこには敬意を表せても、心から尊敬することはできない何かがある。ささいなことだけど、大切なことなんだな、これが。きっと。

 

 

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