木登りの話
近所の公園でさくら祭りがあるというから、行ってみたけど、まだ咲き初め。子供たちが元気に遊具で戯れるばかり。アマチュア演奏家の音楽が響き、ウサギが子供から逃げている。
公園には、桜を始め多くの木々が枝を伸ばしているのだけど、そちらには誰も振り向きもしない。子供等にとっては登り甲斐のありそうな木もあるのに、彼等にはまっすぐ走る折の障害物でしかないのかも。
小学生の頃、親戚の家であまりに暇だからだったかどうか記憶が定かではないけれど、庭の木に登ってV字型の枝の間をくぐって飛び降りたら、意外におもしろいので、一人で繰り返していたら、いつしか従妹が後から同じように枝に登って飛び降りた。いつの間にか近所の子供達もやって来て、幹の前には木登りの順番を待つ子供達の列ができた。おかしな成り行きに僕は途惑うしかない。いつまでも飛び続けるのを許すうちの親ではないので、僕は途中で抜けたけれど、結局僕がその家を去る時まで絶えず誰かが飛んでいた。
数日後に聞かされた話によれば、あれからその木はすっかり周辺の子供等らの遊び場と化して、毎日だれかが登っては飛び降りているとのことだった。僕は自分がもうそこに参加できないことがただ悔しかった。
ふと自分の半生を顧みると、こうした事と似たようなエピソードの繰り返しであるように思える。
でも、今の僕はこの公園の木のどの一本にも登りたいなどとは感じない。酔狂だからとかそんなことではなく、そんなことよりソメイヨシノ以外にも、華ならほかにもたくさんある。花壇の華など、そのほんの一部でしかない。
だから、僕は木に登らない。ウサギを追わない。僕の後ろに続く誰かが群れを成したとして、それがなんだろう。彼等は僕のことなどすっかり忘れ、自分達がそれを思いついたかどうかなど気にも掛けないで、ひょっとするとすっかり自分で思いついた気にさえなって、楽しんでいるかもしれないわけだ。
その代わり、枝から落ちて骨の一本も折ったかもしれない。僕が飛び始めたのは、自分が怪我をしない自信があったというだけで、他人のことまで考慮に入れてないから。五、六本ほど折っている人も、何処かにいるかもしれないな。
でも、桜が満開になったら、幹に足を掛けて、細枝を一本拝借してしまうような不埒者だって現われないともかぎらないね。
そうなったら、またここに来よう。不埒者に会いたいのではない。華が見たいから。それだけだ。きっと。 |