まんすりー・こめんと  2009年6月

 
  雪ノ下散策

 六月の或る日。ひさしぶりに快晴。散策日和。
 歩いた町は、鎌倉市雪ノ下。不思議な地名だ。もちろん今の季節に雪なんか何処にもない。
 日曜日なので、土産物屋等の商店が並ぶバス通りには、大勢の観光客が同じ方向に列を成して流れてゆく。ときおり信号待ちで停止の集団ができあがっている。こちらはそんなことにお構いなく、時には彼等の真ん中を逆方向に進み、ときには垣根に草花を咲かせた脇道に折れて、絶え間なく進んで行く。僕と彼等のどこが違うのか。そう、大差はない。景色を眺める角度が、ちょっと歪んでいるだけ。それでも、ほぼ一方通行と化した路上の一団に突っ込むと時には不愉快な顔をされるし、脇道から顔をのぞかせるとこんな所に道があったなんて初めて気付いたというような目を所在なげに立ち止まっている人達から向けられたりする。気に掛けることでもないけどね。
 紫陽花に誘われるままに細道を歩けば、新宮神社に至る。祭神はと傍らの案内表示板を読むと、後鳥羽院、順徳院ら。小倉百人一首にも名を連ねる十三世紀を代表する歌人だ。御挨拶して、源実朝を甥の公暁が斬ったと伝わる大イチョウの根元を横目に鶴岡八幡宮境内を突っ切ると、源頼朝・実朝父子を祀る白旗神社。もともと別の社に祀られていた父子を明治時代にここへ合祀したのだとか。対立していた京と鎌倉、その両陣営のトップが八幡神を中心として左右に控えている構図は、どこの近代人による発想なのだろう。
 白旗神社には引越後、東鳥居をくぐって、すでに幾度もいくども訪れている。鎌倉入りした西行法師が幕府の役人に呼び止められた「鳥居の下」は、この鳥居ではないか、そしてこの鳥居をまっすぐ西に、白旗神社をまっすぐ南に進んだ道が交差する所が、源頼朝に「西行が来ている」と知らされた流鏑馬馬場ではないかと、想像するのも楽しい。
 そして、二人の会見場所は、さらに東に進んだ大倉(大蔵)だろう。鎌倉幕府はあちこちと御所を遷しているけど、頼朝在世中は、この大倉。
 荒くれ者の侍たちが脇に控える中、数え年四十一の将軍・頼朝に歌の詠み方を尋ねられ「いまだ奥義を知らず」と答える西行、当年六十九。両者とも歌の名声は既に天下に聞こえている。息を呑むほどスリリングだ。
 大倉幕府から北に行けば、そこにも白旗神社。まぎらわしいけど、ここは明治の初期まで頼朝の墓所を祀る寺の跡。廃仏毀釈の嵐で、寺が廃され、今は新たな神社が墓を護っているとか。そういえば鶴岡八幡宮も、明治までは境内に神宮寺がある神仏習合の通称・八幡宮寺だったな。
 そういう歌人たちに囲まれていると、不思議に自分の輪郭がくっきりとしてくるのを感じる。境内の砂利道や、参道の煉瓦道を鳴らす自分の足音が、はっきり聞こえる。彼等の苦悩や喜び、実在していたという感触が、僕自身のそれを照らすからだろうか。それとも逆に、僕の空虚感や閉塞感が彼等をリアルにうかびあがらせるのだろうか。
 いずれにせよ、難しいことではない。そこに羨望の思いが、あるいは敬慕の念があれば、彼等はそばに立っている。
 ひそやかに。
 翌週の午後、子供を連れて保育園の方へ出かけた。そのままソフトクリームを舐めさせながら海へと向かっていると、細道を神輿二基が、
 「ワッショイ、ワッショイ」
と塞いで、バスも、人もしばし立ち往生。一時みんな見物客となる。
 半時ほど海岸で遊んでいたら、さきほどの神輿が三基に増えて国道の下をくぐって来ると、国道のそば、人の囲いの向こうでしばらく何事か為し、その後、細道で奮闘していた二基が海に入っていった。そして海上渡御。漏れ聞こえてくる人声によれば、五所神社のお祭りなのだとか。
 境内で由来書きを読むと、五つの神社を一箇所に合祀したのでこの名があると云う。その中の一神は何故か崇徳院御霊だ。
 かつて西行歌枕の旅をして讃岐へ寄り、崇徳院ゆかりの地を巡ったことを思う。崇徳院が讃岐で亡くなった後、西行がその地を訪ねた故事に従って、江戸時代の物語作者・上田秋成は名作「白峰」を書いた。
 縁なんて解らないものだな。

 

 
  書かれない一行


 一面あつい曇がいっぱいの空。六月だけど、雨は降りそうにない日のこと。
 気分に合わせて、緑のTシャツを着た。高校の時から着ている服。我ながらよく持っている。ワイシャツなら、こうはいかない。

 数カ月前に手持ちのワイシャツを全部、とは言っても夏冬用合わせてたった五着だけど、捨てた。長い間買わないでいたら、首回りたかだか1センチほど増えただけで、すべて着られなくなったから。「すべて」なんていうほどの数ではないか。
 もっとも、そもそもワイシャツなんて十年以上も着ていない。ネクタイだってまっ黒とまっ白の二種類だけだ。

 それにしても、どうしてこのTシャツはこんなにも長いあいだ新品同様で、僕と連れ添って来たのだろう。
 たとえば、こういう話はどうだろうか。このシャツは、かつて殺されかけたこと、両親からその命を見捨てられたことを突き付け、愛されていないことを確信した、その日の想い出として、そのひとつの象徴として存在することを認められたのだ、とか。
 永遠に書かれない小説の一行にしかならないな。いったい誰に「認められた」のやら。
 それよりも、それほど丈夫なシャツを与えてくれた誰かに感謝しておいた方が善いのかもしれない。ついでに色と柄が美しければ、もっと感謝できたのだけど。あるいは、美しくないからこそ色褪せずにすんだのだろうか。
 ならば、それもひとつの象徴だね。きっと。

 

 

 

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