まんすりー・こめんと  2009年9月

 
  秋、彼岸会に

 今年の秋のお彼岸は、日曜日、敬老の日、国民の祝日、秋分の日の四連休。秋の彼岸会になると、僕は父方の祖母を想いだす。春のお彼岸とお盆には、そうでもない。
 僕が積木を組み立てたり、落書き帳に絵を描いたりしている横で、毎日粛々と仏壇を開き、線香と蝋燭に火を灯していた祖母が、念入りにお位牌などの仏具を乾拭きなど始めて、
 「きょうはお彼岸」
と教えてくれたあの日は、秋だったのだろうか。命日ではなく、秋のお彼岸に祖母を想い出すのは、
 「将来あんたがこうやってホトケサンにあげるんやで」
と話してくれたあの日が、ひょっとすると秋のお彼岸だったからかもしれない。いや、別の日のような気もする。では、どうして秋のお彼岸なのだろう。

 解らないことは、自分にもいっぱいある。永遠に解らないままで終わることもたくさんあるのだろう。
 殊に、人の未来はわからない。今は僕とこの仏壇との縁は切れた。

 祖母が亡くなると、仏壇の部屋を寝室兼遊び場にしていた僕は、亡き祖母が暮らしていた部屋で過ごすようになる。毎日の仏事は、母が取り仕切るようになっていた。
 そして祖母の法事の日。いとこ達と本殿の板敷を歩いていた僕は、一人の年下の従弟に茶化された。少なくともそれまでこの少年は、ましてや目上のものにそんなことを口走るタイプではなかったと思う。始めは彼の口調も穏やかだった。でも、その日の彼はなぜか饒舌で、言葉はしだいに辛辣になり、やがてエスカレート、ついに彼の口撃の先は、僕をかわいがってくれた祖母にまで及び、そのとき僕の目に縁先の下の小さな池が入ると、その水面に彼は腹から落ちていた。
 数週間後、従弟が僕に謝るから、僕も従弟に詫びるという形で決着させる案があることを母から仄めかされたけど、実現はしなかった。事情はつまびらかでない。
 その後、仏事はすべて、僕が学校なり、学習塾なりの用で「抜けるべきでない」とうちの親が判断した日に執り行なわれている。僕の父は長男だから、もちろんその日程を提案したのは父だろう。僕はうちの仏壇にも、墓にも近付くことを望まれなくなったわけだ。

 二十数年後、ひさしぶりにその寺に顔を出したけど、墓のそばには行っていない。

 かつての僕は、縁とは人と人、あるいは人と物事を結び付ける直接的原因そのものの意だと思っていたけど、実はそれは因縁の因の方で、本当はその結果を生じさせる間接的条件こそが縁なのだった。
 だとすれば、この場合、祖母も、従弟も、池も、ぜんぶ縁ではないか。
 すると、因はいったい何だろう。
 いや、いくら仏壇から始まった話とはいえ、それでは抹香臭過ぎる。それでなくとも今住んでいるこの市域には、寺社が多いのだ。
 あることよりもないことの方が問題。愛が足りない。そうだ、あまりにも。
 それが因だ。きっと。

 蛇足をひとつ。
 あのひと達のことを僕は普段は完全に忘れている。頭から抜けている。でも、何かのきっかけで想い出すと、そこから記憶が芋づる式に湧き出てくることがある。
 もちろん、なにも憎しみとか、嫌がらせとかで書いているわけじゃない。それが現在の僕等とどのように関わっているか、現在の僕等がどうしてこうした状況にあるのかについて書かずにはいられなくなっただけ。またすぐに頭から抜けるようなことだ。

 でも、その結論だけは頭にとどめて置こう。それでなければ書いた意味もない。意味なんてなくても善いのかもしけないけどさ。
 

 
  為相卿とのやりとり

 或る秋の日曜日、扇ヶ谷まで歩いた。心地好く澄んだ晴天。
 萩の花を右に見て浄光明寺の参道を行き、石段を登ると、志納を求める小屋があったので五百円を渡したら、
 「多い」
と返される。おみごと。
 収蔵庫の阿弥陀三尊、地蔵菩薩像を拝した後、仏殿の奥から山を登る。彼岸花咲く広場を抜けると、石造地蔵を収めるやぐらがあり、その脇から階段を上がれば、やぐらのほぼ真上に冷泉為相の墓があった。七百年ほど前、源実朝亡き後、鎌倉における歌の中心的存在だった人。
 そこで先程の小屋で貰ったしおりを読みながら、きれいな色だけど判りにくい云々とその感想など独りごちて、為相卿にも確かめてもらおうと一部差し上げる。
 「簡単な境内図くらい欲しいと思われませんか」
 為相卿は無言だった。

 この先にある五輪塔は、かつて忍性という僧侶の墓と伝わっていたけど、内部の舎利器に別人の名前が記されていたとか。忍性の弟子といったところだろうか。
 以前、奈良の西大寺のそばに住んでいた。近所を散歩していると、土塀の補修工事でもしていたのだろうか、普段は塀に囲われているはずの一郭が土塀五、六メートル程も大きく崩されて、誰もいない。やすやすと中に入り、塔に御挨拶。それは叡尊という人の墓だそうで、先の忍性の師にあたる。
 はてさて、これは何の偶然だろう。深く考えてもしかたがないか。

 浄光明寺から舗装路へ出る。すぐに里見弴旧宅と聞いている家が見えた。
 今の僕の住まいの近所にやはり里見弴旧宅という洋館がある。藁葺き屋根の書斎が高床式で増築されていて、玄関ロビーから階段を登って、その茶室付きの書斎を訪ねた。一日喫茶がそこで開かれていたから、お目当ては洋間での珈琲。
 「この辺りは志賀直哉の小説「暗夜行路」の舞台で、志賀の推薦を受けた親友の里見弴がみずから設計して、昭和初年にこの家を建てたのですが、子供の通学に不便ということで十年ほどしか住んでいません」
 「暗夜行路」とは、不倫をした妻を許すかどうかで悩む夫が主人公の小説です。
 「今では里見弴の著書も取り寄せるのが難しくなり、志賀直哉の「暗夜行路」もあまり読まれなくなりました」
 当時とは倫理観の変化も大きいのでしょうね。現代では、家族の不在時に間男を引っ張り込んで夫に黙認されている妻、三人の愛人と妻を同居させてその四人の女に貢いでもらっている夫など、何でもあり。それが人目を集めるほど大っぴらになされてさえなっていなければ、当事者が声を挙げないかぎり、誰も、何も言わない。陰口のほかは。

 横須賀線の線路を跨ぎ越えて、その後、為相卿の母・阿仏尼の墓にも寄って、戻った。
 そこで、しまった、と思う。京都の大通寺に伝わる阿仏尼の墓前にも昨年往ったのですよと言えば良かった。
 しかたない。この場を借りて報告しておこう。

 

 

 

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