まんすりー・こめんと  2009年11月

 
  風と落葉

  堂久保登盤 閑勢閑毛天久留 於知者可難

 これは良寛の住まいである五合庵跡に建つ句碑の全文で、

  焚くほどは風がもて来る落葉かな

と読むのだそうだ。大島花束編『良寛全集』には「たくだけは」という異稿が紹介されているこの俳句、しかしこの漢字ばかりの碑文を見ると、良寛が真実この通りに書をしたためたと信じたくなる。ともあれ好い句だ。
 だから、五合庵へ訪ねて来た医学者にして漢詩人の太田錦城(芝山)に吟じてみせたとか、新潟を巡視した帰りに立ち寄った長岡藩主・牧野忠清にこの句をしたため差し出したとか、言い伝えにも事欠かない。あの碑文の漢字表記が良寛の筆によるものならば、藩主に差し出した時の短冊にでもしたためられていたのだろうか。もし史実として正しければ、五合庵に錦城が訪れたのは文化九~十年(1812~3年)ごろ、藩主忠清なら文政二年(1819年)だそうだ。(ちなみに、この錦城さん、日本考証学の先駆である儒学者と同姓同名なので、良寛を訪ねたのは儒学者と誤って記した文献もある)。
 いずれにせよ、これまで僕が親しんできた良寛の俳句集には「良寛の真作と判断できる資料がない」ということで載っていない。だからつい最近まで僕はこの句にまったく注目してこなかった。

 一方、小林一茶の『七番日記』の文化十二年(1815年)の項には、

  焚くほどは風がくれたる落葉かな

がある。その三年後の文化十五年(1818年)には「入程は手でかいて來る木の葉かな」という類句もあり、一茶がこのテーマと真剣に向き合っていたことはまぎれもなく、とても他人の作を丸写しにしたとは考えられない。
 時代も良寛とほぼ同期で、良寛が錦城に吟じてみせた句を一茶が知るはずもなく、藩主忠清へ句を差し出す前に良寛が一茶の『七番日記』を読んでいたとも思えない。

 でも、これが偶然ならば、今後どのような他人の類句を見つけても「それは偶然」と言い抜けられかねない。

 良寛の句が出版物として世に出たのはその死の翌年だから、なお真作が否か疑えるけど、困ったことに一茶の句の無邪気さに対して良寛の句の巧みさは、代表作のひとつに選ばれるほど。
 では、絶対に偶然ではありえないのかと尋ねられると、そうとは答えられないのが、辛い。思いがけないほど似た作のできることがあり得ると、僕も実体験として知っているから。ただし、その二人両方にインスピレーションを与えた種本が古典として有れば。

  焚くほどは夜の間に溜る落葉哉

 与謝蕪村の師として知られた早野巴人の遺吟句集『夜半亭発句帖』に収録されているこの句を二人が参考にしたのだろうとは思う。いや、このような類句のたぐいを読んでいないのにあんなに似た句ができるなんて、僕にはどうしても信じられない。それでも信じ難いくらい。良寛と一茶がそれほど近い詩境にいたのだろうとしても。
 ただ、この二句はまったく同じではなく、「もて来る」と「くれたる」という、この僅かの差に二人の詩人としての質の差が、はっきりと表われているのだから、なによりもそこが救いかな。
 だから、「もて来る」の方は漢詩と和歌で著名な良寛のもっとも知られた佳句で、「くれたる」の方は俳人一茶の代表作には数えられない。
 このささいな差で、句の運命はこれほど異なるわけだ。それはどんな天才が決めるわけでもない。無名で不特定の読者たちが決める。
 だからこそ句作などに真剣になれるのだよ。時には命まで賭けて。

 
 

 
  人を斬るよりも

 若いころ自分自身の人生にどんな期待と展望をいだくかは人によって様々で、それがどういうきっかけ、どういう理由で形成されるのか、そこを個別的でなく普遍的に理解してしまえば、人生なんて半分は解明できたも同然じゃないかと思ってみても、実際はその解答の入口にも達していない現状では、まったく無意味。
 そんなことをふと考えたのは、僕が十代のころ愛読し、あこがれもしてきた作品の作者達が、或る人は二十代で餓死、或る人は三十代で狂死、或る人は四十代で自死などと、揃いもそろって碌な人生を歩んでないのに、自分もその一列に加わりたいなどと真剣に願ったりしたのは、当時の自分のなにか暗い部分が、自分自身の人生にはその他に何ら期待も展望も描けないという絶望的な心境等が反応したのだろうぐらいにしか考えていなかったのだけど、ふと物事をあべこべに見ると、つまり時間を逆行した思考が可能ならば、「おまえの人生にはその他に何も用意されていないのだ」と未来からのメッセージを受け取る形で僕がひたすらそちらへとうちこんでいったとすれば、これは絶望ではなくむしろ天恵に近い。
 自己欺瞞、あるいは、ただの誤魔化しなのかもしれないけれど。

 時々僕は、自分の部屋で考え事にふける形で過去の分岐点をたどり直し、「現在」に至ろうとする。ある時は、それと気付かず愛を得て自宅で悲劇を書いている自分が居る。また別のある時は、自宅で愛の無い妻を隣りに置き何も書けぬまま血みどろの悲劇を他人と自らの現実の血で持って凄惨に描いている自分が居る。
 でも、どちらにせよ、なかなか「現在」にまではたどり着かない。鮮やかな「過去」がどれほど美しかろうとも、そして、どれほど繰り返そうとも、それは散文的な物語をつむぐには何かが欠けている。
 たから、という接続詞を使うのが適当かどうか知らないが、書く。あとは美味いものでも口にして気をまぎらわせるだけ。それはそれで結構な人生だ。その肝腎の喜びと愉しみが少ないことを除けば。
 ただし、このような駄文の場合、気をまぎらわせる方の範疇にしかならないよ。
 そして、やりたくないことなら世の中にあふれかえっているのだ。
 …いけない、鬱気味だな。
 サン=サーンスが作曲家としてよりも薔薇の栽培で知られていた件を引いて、三島由紀夫は小説家よりも人斬りで有名になりたい、などとほざいていたけど、実際は小説よりもハラキリで有名になった。芸術家ならば人を斬るよりも自分の腹を斬る方がふさわしい。
 現実に自分の腹を斬るなんて僕は厭(や)だけどね。

 

 

 

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