確定しているに超したことはない
二月の初め、朝の散歩をしていると、宇都宮稲荷神社という小さな社殿に初午の注連縄が張られていた。
京都の伏見稲荷神社に神が降りたのが初午の日とされているので、このような町稲荷、村稲荷、坂稲荷でも、ささやかな祭りがあるわけだ。まめな人なら自宅の庭の祠(屋敷稲荷)でも何かしているのだろう。
立春までまだ日はあるから、今年は冬のうちに初午の日を迎えたわけだ。季語の上では、初午はもちろん春なのだけど。
ここは源頼朝の重臣だった宇都宮一族の屋敷跡だとか。
「たしかな証拠がない」という理由であまり世に喧伝されていないけど、市内のほかに宇都宮氏の屋敷跡と伝わる場所があるわけじゃないから、伝承を疑う必要もないだろう。宇都宮頼綱が謀反の疑いをかけられて出家し、生活の場を西日本に移した後、この地に鎌倉幕府第四代将軍の屋敷が建ち、初代将軍・頼朝以来の「大倉幕府」に対し、「宇都宮辻子幕府」と呼ばれたわけだから。
その頼綱が京都小倉山の麓に建てた中院山荘の襖絵に飾った歌をもとにして、現在の小倉百人一首ができた。いま嵯峨中院町にある厭離庵の周辺が、その跡地と推測される。
選歌は藤原定家で、厭離庵の裏には、定家の息子、為家の墓があるとか。為家は頼綱の娘を嫁にもらっているので、当時は女性にも遺産相続権があるから彼女が頼綱の山荘を相続したのではと、空想を逞しくして過ごすのも一興。
藤原定家もその近くにやはり山荘を持っていたのだけど、その場所は今や候補地が散在。確定しているに超したことはないね。やっぱり。
常寂光寺仁王門北側から二尊院の南側という言い伝えがあるそうだけど、事実なら二尊院並みの敷地かも。貴族だ。それでも、ジョン・レノンのロンドン邸ならば、庭の湿地ていどにもならないかな。
そこは僕が子供の頃たびたび通った辺りだ。生家の菩提寺がそばにあった。
江戸時代に小倉百人一首が庶民にまで普及すると、選歌依頼を請けた定家自筆の小倉百人一首色紙を襖に貼った中院山荘跡地は、いつのまにかここも定家の別荘跡という伝承に替わり、二十世紀には敷地内に定家の名を借りた山荘ができてしまう。定家ゆかりの史跡が周囲に幾つも実在するためか、それも定家の息子に縁があるならば当然なのだけど。
微妙に異なった言い伝えがこうしてできあがってゆくわけだ。
宇都宮稲荷も、厭離庵も、小倉百人一首とのゆかりを充分に誇れる場所だと思う。所詮、僕の独断でしかないけれど。でも、一方は証拠がないことを理由に殊更に取り上げられず、もう一方はより大衆にアピールできる不正確な宣伝文句が採用されるとすれば、哀しい。
宇都宮氏はとても稲荷信仰が強い人々だったらしく、ゆかりの地にはたいてい稲荷神社があるそうだ。もっともこれは、僕がわざわざ調べたわけじゃなく、地元の古老から聞いた挿話をそのまま写しているだけなのだけどね。
すると、嵯峨中院町近辺の何処かに屋敷稲荷だか、町稲荷だかがあったのか、現に今もあるのか。
だれかが大切に護っているなら、それで善い。 |