まんすりー・こめんと  2010年3月

 
  理想の男について、伊勢と源氏でぐだぐたと

 先日、書店でまた新たな源氏物語の現代語訳を見つけた。ここ百年間、与謝野晶子以来いったいこれまで何人が試みたのか、もう逐一読み比べるのもうんざりするほどで、そんな暇あったら紫式部の原文を再読三読したほうがよほど良いと思うけど、続々と出版されるのは不思議なことにそれらのほとんどがあるていどの部数を挙げているからなのだろう。
 源氏物語が名作中の名作であることに何の異論もないけど、現代人が読んで本当にそんなにおもしろいのか。
 今から約千年前に女性である紫式部が、ひとつの理想の男性像として光源氏という主人公を創造したのは疑えない。帝の御子で、血筋は高く、家柄が善く、もともと懐も豊かで、文武あらゆる方面の才能に秀でいる上に、行動力があり、出世は早く、性格も良く、多くの男女に慕われ、浮き名もたくさん流したけど、その女性が人生に苦労していたらたとえそれが一夜だけの関係であっても進んで援助の手を伸ばし、その結果、晩年には大勢の元恋人たちの衣食住すべてサポートする役目を負いながら、結構それを楽しんでいる。
 現代なら、マスコミにさんざん罵られながら、あっさり笑いとばしているのだろう。たしかに立派は立派だけど、これを理想と喧伝してはたして善いのやら。ともかくフェミニストがその存在に激怒することだけは確実だ。おそらくそれをも笑いとばすのだろうな。そして光源氏を批判することは、結局男のすべてを批判することになりがちだ。

 ところで、源氏物語よりも百年ほど前に成立したと考えられる伊勢物語の主人公も、当時の理想の男性像を提示しているのだろうけど、これが源氏とはまるで方向性が違う。
 血筋と家柄ならば光源氏より少し下という程度で、多くの男女に慕われるけど、その行動力はもっぱら浮き名を流したり、詠歌など一部門に偏った才能を発揮する方面に向けられ、時には恋路に執するあまり、地位も身分も放り出して女と駆け落ちしたあげく女は貧苦と寂しさで死んでしまい、別のある時にはほかの女性を深く愛してそれまでの恋人のことは忘れ、捨ててしまう。
 書いていて、これでも理想の男なのかと思わなくもないけど、案外どこかに今でも実在していそうだ。いや、これこそが現代では多くの女性にとって理想の男性像に近い存在なのかもしれない。少なくとも現代の男性の多くが、源氏物語よりも伊勢物語の主人公であろうとしていることは間違いない。
 
 でも、あまり大きな声では言えないけど、女性の中には本音では紫式部の昔と変わらない理想像を胸に宿している人が大勢いると考えなければ、昨今とだえることのない源氏物語人気を理解できない。
 そういうふうに光源氏を持ち上げないと、伊勢物語風な瞬間湯沸かし器並みに熱しやすくて冷めやすい情熱の持ち主、あるいは、あらゆる意欲と野心に欠けたいわゆる「草食系」男子が増えるばかりだ。
 現代人の貧困は、理想の貧困でもある。目標が低ければ、最初から高みへと到達できる資格を放棄しているに等しいのだから。
 まあ、そうは言っても、その気になってもなかなか光源氏のような男が簡単に現われるわけはない。努力、努力さ。

 
 

 
  わかりやすく、読みやすく

 二十一歳で詩作をやめた詩人ランボーは、自分の視た地獄を表現しようとして、それにあるていど成功した。これは希有なことで、地獄を視ても大概の人は、視た自分を視ていない人と比較して、そこに自分の存在理由を求めようとするもの。ならば、他人にそれを語っても理解してもらえる。視た人であろうと、なかろうと、そのどちらかではあるのだから理解へのとっかかりはあるわけだ。
 しかし、自分だけが視たものを視ていない他人に理解させるのは困難で、それを表現したとしても奇妙な印象を人に与えるぐらいが関の山。だからランボーは、他人にはとうてい理解不能な、自分の視た地獄についての詩を書き、捨てた。
 多くのランボー亜流の詩人の不毛さは、ランボー流の詩を書くことで自分の存在理由を表現しようとするからだ。存在理由について書くならば、別のやり方が良いに決まっている。ランボーは自他の差異に存在理由を求めなかった。他人が「あなたはほかの人とは違うのだ」という声に耳をかさなかったから、ことさら他人と違う生き方を選ばず、人が自分をほかのひと達と公平に扱わないことに苛立ち続けた。他人には見えたはずだ。彼が異様な男であることを。たとえ彼が地獄を視た男だと気付かなくとも、だ。
 そして、自分の存在理由を託さないランボー流の詩人は、詩と絶縁したランボーの絶望だけは受け入れない。僕が共感できる詩人はそれすらも受け入れた詩人だけだ。だからといって、それは詩作をやめた詩人ではいけない。詩をやめたランボーの絶望を受け入れた詩を書くべきだ。
 もちろんこれは詩人固有の悩みではない。
 たとえば、大江健三郎氏の小説「万延元年のフットボール」は「他人に伝達しえない不安にとりつかれた者たちの内奥のあるものの存在感を真に感じとった者の言葉」について書かれている。でも、大江氏の小説ではそれでも絶対に他人に伝達することをあきらめない精神で貫かれていて、にもかかわらずその伝達はいつも失敗に帰し、それが初期の大江作品の難解さとなっていたようだ。その後、大江氏はしだいに世界にも、歴史にも、文学にもつながらない個人的問題に取り組む人となって、僕らの視界から消えてしまったのだけど、それはこの論旨とは関係ない。別の難解さの問題だ。
 わかりやすくて、読みやすいのが、難解で読みづらいのよりも良いに決まっているのに、時に人は「わかりやす過ぎる」などと批判したり、難解で低俗なものを誉めたりする。それがその人自身の限界であるにすぎないことにも思い当たらずに。
 そういうことだから、もう少しわかりやすく簡単に書けないものかな。まったく、散文なんて。


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