理想の男について、伊勢と源氏でぐだぐたと
先日、書店でまた新たな源氏物語の現代語訳を見つけた。ここ百年間、与謝野晶子以来いったいこれまで何人が試みたのか、もう逐一読み比べるのもうんざりするほどで、そんな暇あったら紫式部の原文を再読三読したほうがよほど良いと思うけど、続々と出版されるのは不思議なことにそれらのほとんどがあるていどの部数を挙げているからなのだろう。
源氏物語が名作中の名作であることに何の異論もないけど、現代人が読んで本当にそんなにおもしろいのか。
今から約千年前に女性である紫式部が、ひとつの理想の男性像として光源氏という主人公を創造したのは疑えない。帝の御子で、血筋は高く、家柄が善く、もともと懐も豊かで、文武あらゆる方面の才能に秀でいる上に、行動力があり、出世は早く、性格も良く、多くの男女に慕われ、浮き名もたくさん流したけど、その女性が人生に苦労していたらたとえそれが一夜だけの関係であっても進んで援助の手を伸ばし、その結果、晩年には大勢の元恋人たちの衣食住すべてサポートする役目を負いながら、結構それを楽しんでいる。
現代なら、マスコミにさんざん罵られながら、あっさり笑いとばしているのだろう。たしかに立派は立派だけど、これを理想と喧伝してはたして善いのやら。ともかくフェミニストがその存在に激怒することだけは確実だ。おそらくそれをも笑いとばすのだろうな。そして光源氏を批判することは、結局男のすべてを批判することになりがちだ。
ところで、源氏物語よりも百年ほど前に成立したと考えられる伊勢物語の主人公も、当時の理想の男性像を提示しているのだろうけど、これが源氏とはまるで方向性が違う。
血筋と家柄ならば光源氏より少し下という程度で、多くの男女に慕われるけど、その行動力はもっぱら浮き名を流したり、詠歌など一部門に偏った才能を発揮する方面に向けられ、時には恋路に執するあまり、地位も身分も放り出して女と駆け落ちしたあげく女は貧苦と寂しさで死んでしまい、別のある時にはほかの女性を深く愛してそれまでの恋人のことは忘れ、捨ててしまう。
書いていて、これでも理想の男なのかと思わなくもないけど、案外どこかに今でも実在していそうだ。いや、これこそが現代では多くの女性にとって理想の男性像に近い存在なのかもしれない。少なくとも現代の男性の多くが、源氏物語よりも伊勢物語の主人公であろうとしていることは間違いない。
でも、あまり大きな声では言えないけど、女性の中には本音では紫式部の昔と変わらない理想像を胸に宿している人が大勢いると考えなければ、昨今とだえることのない源氏物語人気を理解できない。
そういうふうに光源氏を持ち上げないと、伊勢物語風な瞬間湯沸かし器並みに熱しやすくて冷めやすい情熱の持ち主、あるいは、あらゆる意欲と野心に欠けたいわゆる「草食系」男子が増えるばかりだ。
現代人の貧困は、理想の貧困でもある。目標が低ければ、最初から高みへと到達できる資格を放棄しているに等しいのだから。
まあ、そうは言っても、その気になってもなかなか光源氏のような男が簡単に現われるわけはない。努力、努力さ。 |