昔を語る言葉
2010年、春、奈良市で平城宮大極殿が復元され、完成記念式典が行われたとか。千三百年前ここで朝廷の主な儀式が行われたそうだ。
以前、奈良に住んでいた頃、僕はこの大極殿跡地は散歩コースのひとつにしていた。当時はだだっ広い原っぱの中に基壇があるだけ。そこで寝っ転がったり、座ってパンをかじったりしたものだけど、今はあそこに高御座を囲む朱塗りの柱があるらしい。
平城宮には、恭仁京に遷都する際に大極殿を移設しながら再び都が奈良に戻ってきた折りに別の場所に大極殿を建てたから、跡地もふたつある。復元されたのは初めの大極殿跡地らしいから、二番目の跡地にはやっぱり基壇だけが風に吹かれているのだろう。
五感をひらくと、いにしえのもののふ達の嘆きを感じる。あの町の空気のせいだろうか。 「いにしえ」も「もののふ」も既に死後であろうけど、ある時代の物事について語る時それにふさわしい言葉に選べばしばしばその時代に使われた言葉に至るのも自然。
散歩のコースは別に幾つもあって、佐紀古墳群、秋篠寺、蛙股池、西大寺、菅原天満宮、勝間田池と、選択肢には事欠かなかった。そうして、歩いて、あるいて、考えにかんがえるのが、日課だ。
怒ること、悩むこと、嘆くこと、それがすべて人生さ。不毛といえば、それまでだ。
もう一度あそこに立って、また缶コーヒーでも飲むのも悪くないような気がするよ。
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