まんすりー・こめんと  2010年6月

 
  雑感

 iPadという新しい機種をめぐり、発売当初の一時期はずいぶんかまびすしい世の中だった。読書のかたちを変える可能性がある機器ということで。
 実際のところ、どのていどの影響があるのか、これから時間をかけて見てゆかねばならないのだろうけど、率直に言えば、機種その物には僕自身あまり心惹かれていない。多くの人がそちらに靡けば、こちらにもそれなりに影響は受けるのだろうけど、その波は沖深くまだ遠い。

 今そもそも読書人口はどれほどなのだろう。少なくとも旬の娯楽でないことは確かだ。
 うちでは、ときおり子供がその母親に絵本を読んでもらっている。
 現代で読書の人気が薄い理由のひとつに、読書は他人と一緒に楽しむには不向きなことと、孤独と向き合うという大切な行為を文字がきちんと読めない子供は一人で読めるようになる前にアニメーション映像やポップミュージックで親しんでしまうからではなかろうか。
 うちの子供もDVDのアニメやビートルズの音楽ならば一人で喜んで楽しんでいるのだけど、まだ文字が読めないから一人で読書を楽しむふうにはなかなかならない。
 と思っていたら、絵本の後は母子でワガノワ・バレエ団のDVD「くるみ割り人形」を鑑賞し始めた。御相伴は遠慮しよう。

 < 二十世紀初頭、西洋の影響の下、石川啄木は新しい短歌の境地を切り拓いた。でも、それは万葉集に既に存在していた境地でもあるが故に、二十世紀に万葉集は価値があるのだと理解している人は少ない。そうして万葉集を尊びながら、たとえば松尾芭蕉などの東洋精神に惹かれてしまう歌人のなんと多いことか。芭蕉が偉大であったとしても、その境地から二十世紀日本社会の原理を探ることはできないのに。>

 折口信夫は「歌の円寂する時 続編」で、だいたいそういうことを書いた。あの理解しづらい独特の文体で。
 残念ながら発表当時は、異論があるどころか、そもそも折口信夫が何を主張しているのかすらも理解された形跡はない。
 まして、二十一世紀日本社会の原理を探るために有効なのは、万葉集か、松尾芭蕉か、石川啄木か、それともまったく別の詩人なのか、多くの人々には五里霧中だろう。まあ、そんなことに無関心で、五里霧中であるという自覚にすら達せはしないのが一般人というものか。
 実は、折口信夫がこの評論を発表した昭和初期には、宮沢賢治や中原中也の作風と生活を見れば判る通り、万葉の精神に価値がある社会の原理など既に急速に消滅へと向かっていたので、相対的に古今集・新古今集を尊ぶ精神の復興がこの後なされたのも、けっして偶然ではない。

 しかし詩人たる者は現代の原理を探る為にうんぬんと言ったって、そのためにiPadを購入するでなく、手持ちの札で勝負するほかないではないか。
 
 ところで、この「歌の円寂する時」という表現は「短歌が文学でなくなる時」という意味である。
 僕が「口語短歌の宣言」というエッセイを書いた大学生の時、これはひとつの文学運動の出発点のつもりだった。しかしながら、その後、僕と関わりのないところで展開された口語短歌の運動は、むしろ非文学的もしくは反文学的傾向を強めるばかりと見える。
 新しい歌の可能性を探るつもりで始めた僕の創作活動は、結果的に歌を円寂する時へと加速させる端緒を拓いたことになるのだろうか。
 そうでないことを証明するには、僕自身がその可能性を拓くほかないらしい。
 まさかこんなに孤独な道とは考えもしなかったよ。
 そうしてそれが後世にもっと佳い影響を与えるものであって欲しい。今度こそ。もちろんそれは盗用を許可したのでも、奨励しているのでもないよ。
 いや、それに今までの分でも、そこまでひどくないと思うのだけどね。たぶん。

 
 


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