今月の作品
 
栗本薫氏第一歌集「花陽炎 春の巻」を読む。

   (一)

 友だちが小説家・栗本薫氏第一歌集『花陽炎 春の巻』を貸してくれた。その人はSFマガジンの「グイン・サーガ」連載開始以来のファンで、グインは総て初版講読、ファンクラブの集いにまで参加し、著者とのスナップ写真を大切にしている典型的愛読者だ。絵心もないのに自筆のグイン名場面画集を作ったり、廉価の北欧サーガ全集まで持っている(絶対読了していないに違いない)。僕も誰かの作品にのめり込んだ経験はあるものの、それは全員故人なので、まるで覚えのない感情。ちょっと羨ましい気がしないでもない。要するにその人は短歌を読む習慣がないのに何故か買い、習慣のある僕に読ませようということらしい。ファン心理は恐い。
 そういうわけで、ありがたく読ませてもらった。そして、ちょっと覚え書きのひとつも書き残しておきたくなったのだ。
 そういう熱烈ファンだけが目を通せば良い類のものではないのか、という意見はあると思う。しかし、発表された以上、これは一冊の歌集という作品。毀誉褒貶の対象にされるのが自然だろう。<「小説を発表する」というのは作者をどのようにも罵倒をする権利をも手に入れたと考えている読者の前に無防備に身をさらすということだ>と述べる氏だからこそ、遠慮なく打っ叩くのが礼儀だと思う。「小説は男児一生の仕事にあらず」と放言した小説家を強く批難した氏が、巻末で<小説を書くのと少しも変わらぬ書き方でこれらの短歌を書きました>と記している以上「短歌は女児一生の仕事にあらず」とは考えておられないと信じる。氏がそういう小説を読みたいと考えておられるのと同様、僕もそういう短歌をこそ読みたいし詠みたいと熱望しているから。
 また、氏が歌人であるかと問うのは意味がない。師に付いていないというなら正岡子規も寺山修司も歌人ではないし、作歌を活動の中心としていないというならサラリーマン歌人は全員失格。要は歌の出来のみ。氏の表現を借りれば<ありったけの情熱と狂気と力>をもって歌われているかどうか、だ。
 これほどの有名人の著書だし、とっくに誰かが小さなコラムにせよ書いている可能性は充分あるけど、捜し方が悪いのか、見つからなかった。だから何の資料も無し。やれやれ。
 

   (二)

 さて、自分が言うのも恐縮だが、栗本薫氏はさすがあれほどの作品を仕上げてる方だけあって、創造の情熱を熟知されてる。作りたいという衝動が沸き上がれば作るし、なければ作らない。そこが専門歌人ではない所以と言うなら半分は同意するけど、半分は頷けない。
 斎藤茂吉「つゆじも」「遠遊」「遍歴」の三歌集はこれまで三十代後半から四十代にかけての詠歌と信じられてきたけど、しだいに後の追加詠がかなりあるという説が支持を広げてきている。茂吉は「歌ができない」と悩んでいたらしいが、茂吉ほどの歌人なら無理やり絞り出そうとすればできないはずはないから、むしろ衝動が沸き上がってこないという意味ではないか。無理にすればできるが敢えてしない知恵を歌人ほど軽んじてる人達もいない。もっとも、茂吉ものちに衝動無しに「いきほひ」「とどろき」「くろがね」と大濫作をやってしまうのだけど。もともと何もなくても自分で創り出す、どこにいても一人悶え苦しむ、そんな芸術家一般にはありふれた事柄を経験していない人達が大半だからだと思う。
 創造者としては、専門歌人よりも氏の方が誠実だろう。
 もっとも、SFやファンタジー系の作家にも歌人として名の知られた人はいるのだから、氏が自分を素人歌人扱いする記述は、彼等を意識してのものかもしれない。
 

   (三)

 本書は「三月」「花陽炎 春の巻」「四月」「花冷え」の四章で構成されている。
 初読の印象を正直に言えば、意外にオーソドックスな短歌なので驚いた。作者の職種を思えば、はぐらかされたような気がしないでもない。小倉百人一首の持統天皇詠歌の本歌取りなど、あまり出来が佳くない点を含めて、ありふれた歌だ。
 また、何もこんな物まで収録しなくても、と感じる凡作があったり(無声映画の前口上のような物まである)、あまりにも似たテーマの歌が並びすぎ少々退屈だったり。山場ばかりの本も、山場無しの本もダメ、と真っ当な師は弟子に伝える。伝えられなくても栗本氏なら御存知のはずなのに。
 それを除けば、これはとてもおもしろい読み物だった。おもしろくなければ、読み物としての価値はない。そう思えば、価値のない、かくも多くの歌集達よ、恥じねばなるまい。
 

   (四)

  年古りし姫人形がほの笑みて
      我を見てゐる洋館深夜

  頁切る仏蘭西装の革本の
      インクの匂ひランボオの闇

 一読気付くのは、昭和幻想短歌(前衛短歌という呼称は好きではない)の特徴に共通する虚構と欧風耽美趣味。短歌愛好家なら様々な高名歌人との比較を試みたくなる歌風だ。
 たとえば、昭和初期の欧風趣味である斎藤史、戦後の塚本邦雄を思う。すると、そういうヨーロッパ指向の短歌ではなく、栗本氏の場合は日本的欧風趣味なのだということが見えてくる。洋館には姫人形が笑み、真珠夫人は物語そのもののように消えねばならない。

  黒真珠真珠夫人とうたはれし
      女賊なりしが刑場に消ゆ

  旧華族奢りの家とうたはれて
      驕慢の君売られゆく春

 これらはフィクションの写生、小説のワンシーンまがいで、はたして作者に短歌を詠んでいる、詩を作っているという自覚があったのかも怪しいけど、にもかかわらず魅力的な歌となっているのは、短歌という詩型のいびつさのせいか。
 先の引用歌において、主人公は<目>だったけど、ここでは幻想を見る人そのものになる。そこに<私>がいる。
 栗本氏には、歌に限らず小説でもそうなのたけど、驕慢な女の哀れな末路が多い。
 「グインがあんな女と結ばれてハッピーエンド? 冗談じゃないわ」
 と僕にこの歌集を貸してくれた愛読者はまだ未完の小説に一喜一憂しているけど、これは愛読者にも潜んでいる暗い情念らしい。

  春野越へ落ち武者一騎馳せ去りて
      魔物があとをつけるたそがれ

 自ら<江戸川乱歩の世界>と自注されてる中に、しかし時折<横溝正史の世界>ばりの日本的旧家の臭いが漂う。そればかりか中国からエジプトまで作者の想像力は果てしない。このまま宇宙まで行ってしまえばおもしろいのに、とさえ思う。けど、稀に竜舌蘭の腐臭が溢れても、大部分は桜、桜、桜。秀歌に乏しいので引用は避けるけど、春にはやはり桜。エキゾチシズムに混じる美の一華。

  いにしへの帝都はいづこさらさらの
      流沙の底に埋ずもれしまま

 柿本人麿や高市黒人の近江京を忍ぶ歌等を思い出したりしたら、作者に「御勝手に」とばかり愛想尽かしされるかもしれないな。
 この一首の前後には廃都詠が並ぶ。自問自答もせず、ストーリーがただ流れるように。そこに作者その人がいる。埋もれているのは何かは知らない。斎藤史の湖には「みずから」が沈んでいた。そして、笛を吹いて会いに行くこともできた。この歌にはそういうキーワードが何もない。だから詩としては読者の共感をどこかで拒んでいる。小説的な回りくどさがあるというべきだろうか。主人公を通し作者へ至る道は遠い。同じ虚構を使っていても寺山修司や福島泰樹とはそこが違う。そこが詩歌と小説の違いなのだろうか。一読、寺山を想う歌もあるのだけど。

  心中の友の遺せし人形の
      切りても切りても黒髪生ふる

 しかしもっと平明な一群もある。実体験ではないかと疑うほどに。目立たないけど、気になりだすと鬼子に見える。

  見てしまふ理科教室の密会は
      わが親友と兄の接吻

 やはり虚構をもっとまぶさなければ光らない。いわゆる写生とか幻想とかの区別ではなく。(僕は写生歌が大好きなのだし)。さいわい似た題材の佳作がある。

  浅き春幼馴染と書庫に居て
      不意の抱擁紙魚の微笑み
 

   (五)

 それにしても。完読してまず感じたのは、ついにこれが「栗本薫の著書」でしかないことで、中島梓という評論家でもあるこの女性には、あまりにも強固すぎる世界があるらしい。そこには揺らぎはあっても亀裂はない。
 しかし、むしろ揺らぎがある方が佳作を産んでいるように読める。通気口のような物がそこには要るのだ。読者を窒息させない何かが。
 小説では違う物がその役目をはたしている。しかし、それはここでは語るに余る。

  万華鏡きらゝに砕け散り果てし
      わが愛玩の少年の春


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