脚 韻 詩 の 宣 言

 

 去年の春から、韻文詩に関わって、まもなく一年半。この間、僕が発表してきたのは、もっぱら脚韻詩でした。

  脚韻とは、つまり行の最後の音を揃えることで、欧米や中国でも、詩の主流は昔から脚韻詩でした。しかし、日本の詩で脚韻を揃えるのは、漢詩のみで、他は例外的なお遊び。前世紀中頃にマチネ・ポエティック運動のような試みもありましたが、西洋詩の技法そのままに母音だけを合わせていたので、まったく根付きませんでした。なにしろ読んでも、脚韻がなされているとは全然気付かないのだから、無意味きわまりない。余計な労力でしかないと感じられて当然でしょう。

 僕は短歌・俳句を中心に活動しているので、これまで詩は対岸のことと、読んでおもしろがるだけで、あまり熱心に創ることもなかったのです。定型のない詩に魅力を感じられなかったのです。
 でも、本当は欧米の詩にも定型はしっかりあったのですよね。日本の翻訳がそれを削り落としていただけで。
 僕がそれに最初に気付いたのは、邦楽のヒップポップ・シーンの詞でした。そこでは、ところどころにせよ、ちゃんと洋楽のように、言葉が韻を踏んでいたのです。はっきり聞こえるように。
 ラジオから流れてきたこの詞は衝撃的でした。日本語でも使い方次第では韻が踏める。当たり前のことに気付いた僕は、どうすれば日本語でも韻が聞こえるか調べてみました。
 その結果、欧米のように母音を合わせただけでは韻を踏めないけど、仮名1文字分以上の言葉を重ねれば、日本語でも韻が聞き取れることが判りました。でも、これは聞く側が気を付けていれば、の話。僕は仮名1文字分では、作品を発表していません。やっぱり、ローマ字3文字分以上が理想です。和製ヒップポップでは、たいてい仮名2文字分以上ですね。1文字を三行以上つらねるというのもありますが、あれは反則です。ははは。
 それから実作にとりかかったのですが、詞の世界と、詩の世界では、やっぱり言葉の使い方が違います。最初は途惑いました。でも、問題はすぐに解決。日本の詩の世界には、既に脚韻詩まがいの実験作はあったのです。ただその作者がそれを一時の実験としてあまり顧みず、欧米風の韻文詩として徹底的に深めていこうというふうにはならなかっただけで。
 詩の本に脚韻を含む欧米詩の定型の解説書が少ないのには困りました。短歌や俳句のように、日本語詩の定型については詳しく説明された手引き書が幾らもありますし、漢詩なら必ず韻の踏み方が解説されてますけど、欧米詩の本にはびっくりするほど少ない。原文表記の載った岩波文庫の方が、むしろ勉強になりました。やれやれ。
 僕はそれらを参考に、自分なりの脚韻詩を次々と書き上げてゆきました。そして、それを雑誌社に送ったり、同人誌に載せたり、自分のサイトに掲載したりしたわけです。
 けれど、詩壇からはほとんど何も反響はありませんでした。現代詩側は二十世紀末の散文詩隆盛をひとつの達成として、いまだにそれを誇っているのか、脚韻イコール定型は歴史への逆行と映ったようです。欧米でも、中国でも、けっして脚韻詩は過去の遺物ではないようなのですが。
 がっかりしつつも、相変わらず、僕はぽつりぽつりと新作を書き上げていました。ただ、その過程で、脚韻詩というものは予想以上にエネルギーと時間がかかるものだということにも気付きました。むかし、リルケが「ドゥイノ悲歌」を何年もかけて漸く完成させたという記述を読んだ時、どうしてこんな短い文章を描くのにそれほど時間がかかったのだろうと不思議に思いましたけど、自分で創って解りました。これは大変な作業です。でも、それが楽しくもあるのですね。
 最初におもしろがってくれたのは、現代詩人よりも欧米詩の翻訳者のようでした。
 日本語で脚韻は踏めない、だから、欧米詩の翻訳も、脚韻のない、ただの行分け詩で良い、ということに疑問を感じておられる方々も多々あったようです。まだ出版はされてませんが、そのうち脚韻のあるポーやボードレールの詩を読むことができる日が来るかも。期待してます。
 そして、なにより嬉しかったのは、僕の試みをおもしろがって、行分け脚韻詩に挑戦する同行の士が現われてきたことです。これからもっと増えるかもと思うと、楽しい。僕もこれからもっとたくさん描くつもりです。

 僕はこれまで平明で新たな文体を持った口語短歌やら、自由な言葉遣いで切れ字のない俳句やらを創出したり、その他いろいろな試みをしてきました。その成果を全部否定する人もいれば、結論だけを横取りしてこちらへ罵詈雑言投げかけて来る人もいます。生半可な理解で真似するから、支離滅裂になってる人も。
 今度の試みも、受け入れない人もいれば、ちゃっかり拝借して三宅惺なんて知らないよという態度を決め込む人もいるのでしょうが、まあそれも現代社会の縮図なのでしょう。
 僕は僕なりの作品を産むだけ。「かたち」も大事ですが、結局最後は「なかみ」です。「なかみ」に本当のオリジナリティが加われば、「かたち」も自然に変化してゆきますから。

 そういえば、数年前、頭韻歌をずらりと並べたこともありましたが、あれも最近やってる人がいるようですね。僕はもう飽きちゃってやってませんが。
 作者がやりすぎると、先に読者が飽きちゃうんですよね。問題は詩歌句の世界では、読者が飽きても、誰も止めないことです。

(2002.11.7) 

 

(初 出: オフィシャルサイト惺式文歌邸「あ・はるふ・まんすりー・こめんと94」

 

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